精神科医の片田珠美さんは、職場での不適応が発達障害と診断されるケースが増えてきたと言います。なぜ、発達障害が顕在化してきたのか、その背景には、産業の変化、職場の変化がありました――。

※本稿は片田珠美『一億総他責社会』(イースト新書)の一部を再編集したものです。

※写真はイメージです(写真=iStock.com/tdub303)

発達障害の増加

コミュニケーション能力がそれほど高くなく、対人関係が苦手な人は昔から一定の割合でいたはずだが、製造業の職場が多かった時代は、問題が表面化することはあまりなかった。しかし、サービス業従事者が増え、高いコミュニケーション能力が要求されるようになると、職場での不適応も、発達障害と診断されるケースも増えた。

これは、発達障害の特性によると考えられる。発達障害の人は、空気が読めないとか、集団行動が苦手という傾向があるとはいえ、同じことを繰り返す仕事には向いているようで、まじめに取り組むことが多い。そのうえ、独特のこだわりがプラスに作用すると、他の人たちよりもいい製品を作れることも少なくない。

何よりも、製造業では目の前の仕事に黙々と取り組めば評価され、対人関係にそれほどわずらわされずにすむ。そのため、製造業の職場も就業者も多かった時代には、発達障害が問題になることはあまりなかったのだろう。

ところが、製造業が衰退し、サービス業に従事する人が増えると、発達障害の問題が表面化しやすくなった。これは、サービス業で要求される、客の要求に臨機応変に対応する柔軟性を、発達障害の人は持ち合わせていないことが多いせいと考えられる。発達障害の人は、一般に変化に弱く、ちょっとした変化にも敏感に反応して不安になる。そのため、商品やサービスに不具合が生じて客が文句を言う事態に柔軟に対応できず、サービス業では職場不適応に陥りやすい。

上司から検査を指示されることも

もっとも、製造業の求人自体が減っている状況では、製造業に固執してはいられず、サービス業に就職するしかないが、そこでしばしば軋轢あつれきを生じる。すると、最近はすぐ「発達障害じゃないか」ということで、上司から検査や診察を受けるように指示される。

その背景に、社会における発達障害の認知度が上がった現状があることは否定しがたい。どんな心の病でも、メディアで取り上げられるほど、「自分もそうじゃないか」「あの人もそうじゃないか」と思う人が増え、紹介や診察の件数の増加につながるからだ。

こうした風潮に拍車をかけているのが、就労の現場がどんどん苛酷になってきたことである。正社員の比率が減って、パートやアルバイト、派遣社員や契約社員などの非正規労働者がどんどん増えると同時に、要求されるハードルも高くなった。

余裕のない職場が増え、従業員への要求がハードに

発達障害と診断されるケースが増え、注目を浴びるようになった原因について、岩波明・昭和大学医学部精神医学講座主任教授は、「仕事の現場において、発達障害が問題とされるようになってきたのは、1990年代の後半からである。このことは、長く続いた不況とグローバル化の進展によって、企業経営の厳しさが増し、従業員に対する要求が過大になってきたのが一因であると思われる。つまり、企業経営に余裕がなくなったために、従業員の多少の『ずれ』も重大な問題として認識されるようになったものと考えられる」と述べている(『大人のADHD:もっとも身近な発達障害』)。私も同感である。

極端なこだわりがあっても、空気が読めなくても、同じ失敗を繰り返しても、職場に余裕があった時代は、まだ許容されていた。ところが、その余裕がなくなるにつれて、許容されにくくなった。

また、非正規労働者は、仕事をこなせないと簡単に切られてしまうので、その割合が高くなっていることも、「ずれ」による職場不適応の問題を表面化させる一因だろう。こうした要因が積み重なった結果、発達障害と診断されるケースが増えたのではないか。

発達障害の患者を数多く診察してきた精神科医の杉山登志郎氏は、

「発達凸凹+適応障害=発達障害」

という図式を提示している(『発達障害のいま』)。

これは、持って生まれた凸凹、つまりある種の「ずれ」に、環境とのミスマッチによる適応障害が加わって、本人もしくは周囲が困るようになり、発達障害と認識されるという考え方である。裏返せば、持って生まれた「ずれ」だけで、発達障害を疑われて受診を勧められるほど問題が表面化することはまれということだ。

したがって、発達障害がこれだけ増えた背景に、職場環境が厳しさを増し、高いコミュニケーション能力が要求されるようになった現状があると考えられる。

「空気を読め」という重圧

発達障害と診断されるケースが増えた一因として、「空気を読め」と以前にも増して要求されるようになったこともあるのではないか。発達障害の人は、空気を読むのが苦手なことが多く、それを暗黙のうちに要求されると、とてもしんどいと感じるようだ。

なぜ空気を読むことが以前にも増して要求されるようになったのかといえば、世間が壊れてきたからである。

われわれの世代が知っているような昭和の時代のかっちりした世間では、しっかりと会社があって、そこで定年まで働くのが当たり前だった。また、ご近所同士のお付き合いもしっかりとあり、ご挨拶も盆暮れの付け届けもきちんとするのが普通だった。そういうかつては当たり前にあった世間の姿は、とくに大都市では過去の遺物になりつつある。

どこかにその一部が残ってはいても、機能不全に陥っている。そのうちに消えてなくなってしまうだろう。このように世間が崩れつつあるからこそ、空気を読むことが以前にも増して求められるようになった。というのも、作家で演出家の鴻上尚史氏が見抜いているように、「『世間』が流動化したものが『空気』」だからだ(『「空気」と「世間」』)。

しかも、鴻上氏によれば、「『世間』は中途半端に壊れていて、そして、この数年でさらに激しく壊れている」という。私も同感だ。『「空気」と「世間」』が刊行されたのは2009年だが、それから現在に至るまで世間が一層壊れたと感じているのは私だけではないだろう。

現在の日本社会では、かつて存在していた世間というちゃんとした共同体は崩壊しつつある。完全に崩壊したわけではないにせよ、かなりの程度崩壊していることに誰もが気づいている。残念ながら、「もはや『共同体』をもう一度取り返すのは、不可能だ」とも感じている。

「世間」が壊れるに従って不安定になる日本人

もちろん、中には「世間を気にしながら生きるのは面倒くさい」とか「世間のようなうっとうしいものは、なくても全然かまわない」と思っている方もいるかもしれない。ただ、われわれ日本人は伝統的に世間の中で生きてきたので、個人が世間に支えられていた面もある。そのため、世間が壊れるにつれて、日本人の多くが不安定になり、「自分を支えてくれる『なにか』」を、世間が安定していた頃よりも一層強く求めるようになった。

片田珠美『一億総他責社会』(イースト新書)

「自分を支えてくれる『なにか』」は、程度の差はあれ、誰にとっても必要だ。ただ、個人主義が浸透していて、キリスト教信仰がある程度残っている欧米と比べて、日本では、「自分を支えてくれる『なにか』」を他人とのつながりに求めがちである。

この「自分を支えてくれる『なにか』」を求める気持ちが、せめて「共同体の匂い」を感じたいという願望につながり、それが「空気」という言葉になるのだと鴻上氏は指摘している。そして、「『空気を読め!』という言葉は、『共同体の匂いを読め』という指示です」と主張している。

この主張には説得力がある。いまや世間という共同体は壊れつつあり、「世間に従え!」とは言えなくなった。そこまで言える、かっちりした共同体はもはやないのだから。その結果、かすかに残っている「共同体の匂い」を読むこと、つまり「空気」を読むことが以前にも増して求められるようになったのである。