私たちは「家族」を過信しすぎていないか

かつて核家族は社会の最小単位と言われたものだ。そして、家族や夫婦の問題はその中で解決されるべきプライバシーともされてきた。それは、日本社会がどこか「家族」の力を過信していたからではないかとも思う。

「家族」であるかぎり、あるいは「夫婦」であるかぎり、それが自然と何らかの抑止力となって問題はその中で自己解決されることを期待されてきた。家族だからというただそれだけで、何か不思議な「自己治癒力」や「自浄作用」があると信じて。

家族を持って初めて一人前だとか、家族が一番だとかいった表現は、「家族とはいいものだ」と一筋も疑いを持たない人の口をついて出てくるように思う。だが婚姻の形がさまざまになった現代、いや結婚すること自体がデフォルトではなくなった現代、社会の最小単位は核家族から個人へとさらに細かい粒になった。私は最近、思っている。昔から、家族に自己治癒能力や自浄作用など、本当はなかったのじゃないか。社会に生きるための選択肢が乏しく、家族というものが個人の生存を保証する社会的なセーフティーネットとして機能していた時代には、「家族はいいもの」であってほしい、あらねばならない、と望んでいた人々がいただけのことなのではないか。

本当に家族がそんなにいいものだったら、誰も家族に失望することなく、家族を持つこととはずっと魅力的な「憧れ」であり続け、この時代、誰も彼も、他の何を犠牲にしてでも喜んで結婚して子どもを持っているはずだ。だが昭和も平成も、この令和でさえ、私たちはさまざまな家族の問題や家族の悲惨な事件を見聞きし、そのたびに家族なるものへの期待が少しずつがれていく。それなのに、なぜ私たちはいまだに「家族」を信じているのだろう。