「児相」が機能すれば虐待は防げるのか

昨年来、新聞各紙やテレビのニュース番組でも事件の詳細は大きく取り上げられ、私たちはあらためて虐待問題が社会から絶えないこと、社会がいまだそれを防ぎきれず、対処しきれていないことを目の当たりにし、事件の反響は児童相談所間の連携や、港区南青山住民の児相建設反対運動に対する批判にまで波及した。

私たちは、自分たちの代わりに「そういう役所の人」がきっと解決してくれると思って、「児相、児相」と言う。だが、児相の数さえあれば、児相が連携して機能していれば、虐待は防げるのだろうか。「児相の“監督”がちゃんと行き届けば、われわれ良心的な市民の通報によってそんなけしからん親は処罰されて、普通の市民は安心して眠りにつける」のだろうか。

それは、児相という「自分とは関わりのない場所」に、虐待という「自分とは関わりのないよその家の問題」をひとごととして押し付けるだけにすぎない。

「社会で子どもを育てる」の本当の意味

家族という幻想をいまだに見ている私たちは、「それは社会が(自分が)介入すべきではない」と判断してしまい、社会で子どもを育てるという意識が薄れている。先日、エッセイストの犬山紙子さんの夫でミュージシャンの劔樹人さんが新幹線のデッキで大泣きする娘をあやしていたところ、他の乗客に誘拐を疑われ、警察に通報されて取り調べを受けたとの一件があった。

誰かがなにかを疑問に思ったのなら、警察に通報する前にたった一声かければよかったのに、と思う。「どうしたの、大丈夫?」と。そして一緒にあやしてあげればよかったのに、と思うのだ。

監視して通報して当局に対応させる、のじゃない。困っている人を見て、手を貸す。そんな小さなことが、つまり社会で子どもを育てるということなのじゃないか。

国内外からどうこう言われながらも、日本は世界の中で否定し難くトップレベルで豊かな国だ。それなのに私たちの社会は温かげな何かの幻覚をぼんやりと見たままで、現実社会のどこかで最も弱い輪に負荷が掛かってブツリとちぎれ、小さい命が失われてしまうのを、いまだに救うことができない。

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河崎 環(かわさき・たまき)
コラムニスト

1973年、京都府生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。時事、カルチャー、政治経済、子育て・教育など多くの分野で執筆中。著書に『オタク中年女子のすすめ』『女子の生き様は顔に出る』ほか。