9月3日、目黒女児虐待死事件の初公判が行われた。この痛ましい事件はなぜ起こってしまったのか。何とかして虐待から子供を救えなかったのか。現代の「家族」をとりまく問題の根本に迫る――。
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「救われない」母親は、子どもを「救えない」

報道を聞くたび、胸の潰れそうな事件だ。2018年3月に東京都目黒区で当時5歳の船戸結愛(ゆあ)ちゃんが両親から虐待を受けて死亡したとされる目黒女児虐待死事件。結愛ちゃんが継父である雄大被告(34)による継続的な暴行で衰弱していくのをわかっていながら、虐待の事実が発覚するのを恐れて放置し死亡させたとして、保護責任者遺棄致死罪に問われた母親、優里(ゆり)被告の公判が9月3日から東京地裁で行われた。

初公判の冒頭から、優里被告は息が荒くなって泣き崩れるなどの心身症状を示し、弁護人が「過呼吸状態」と言うほど。優里被告は「通報しなかったのは、夫の報復が怖かったから」と述べ、弁護側は起訴内容を認めた上で「夫からの心理的な支配」を主張。優里被告の心身症状はトラウマがよみがえることによるPTSDや自責の念によるものと暗に説明された。

これまでにもさまざまな専門家による分析で、結愛ちゃんが加えられ続けた虐待の陰には、再婚した8歳上の夫、雄大被告から優里被告へのDVの存在が指摘されている。虐待を放置したとされる優里被告は、虐待を受けている娘を「救わなかった」のか、「救えなかった」のか。

親失格と責めることは簡単だ。「夫に心理的に支配されるなんて弱い、気を強く持って子どもを連れて逃げれば良かったのに」と言うなら、じゃあそう言う者こそが「気を強く持って結愛ちゃんを連れて逃げてあげれば良かった」のだ。虐待事件の多くのケースにおいて、母親が孤独だ。それは、物理的に人に囲まれているかどうかを意味するのではない。

私たちは「家族」を過信しすぎていないか

かつて核家族は社会の最小単位と言われたものだ。そして、家族や夫婦の問題はその中で解決されるべきプライバシーともされてきた。それは、日本社会がどこか「家族」の力を過信していたからではないかとも思う。

「家族」であるかぎり、あるいは「夫婦」であるかぎり、それが自然と何らかの抑止力となって問題はその中で自己解決されることを期待されてきた。家族だからというただそれだけで、何か不思議な「自己治癒力」や「自浄作用」があると信じて。

家族を持って初めて一人前だとか、家族が一番だとかいった表現は、「家族とはいいものだ」と一筋も疑いを持たない人の口をついて出てくるように思う。だが婚姻の形がさまざまになった現代、いや結婚すること自体がデフォルトではなくなった現代、社会の最小単位は核家族から個人へとさらに細かい粒になった。私は最近、思っている。昔から、家族に自己治癒能力や自浄作用など、本当はなかったのじゃないか。社会に生きるための選択肢が乏しく、家族というものが個人の生存を保証する社会的なセーフティーネットとして機能していた時代には、「家族はいいもの」であってほしい、あらねばならない、と望んでいた人々がいただけのことなのではないか。

本当に家族がそんなにいいものだったら、誰も家族に失望することなく、家族を持つこととはずっと魅力的な「憧れ」であり続け、この時代、誰も彼も、他の何を犠牲にしてでも喜んで結婚して子どもを持っているはずだ。だが昭和も平成も、この令和でさえ、私たちはさまざまな家族の問題や家族の悲惨な事件を見聞きし、そのたびに家族なるものへの期待が少しずつがれていく。それなのに、なぜ私たちはいまだに「家族」を信じているのだろう。

家族である前に個が強くなければ不幸

ドキュメンタリー番組「情熱大陸」に出演した社会学者の上野千鶴子さんが、フィールドワークとして介護現場を取材したあとに、こうコメントしていた。「私は『家族のように介護する』ってのが嫌なの。すごく抵抗を感じる。家族・イズ・ザ・ベストでさ。本当の家族じゃない人間がする介護は二流品なんだって考えで、それは家族の呪縛だと思う」。

コラムニストの酒井順子さんは著書『家族終了』(集英社)で、生まれ育った家族の中で両親と兄、自分以外のメンバーが全て世を去り、自分には同居する男性はいるものの婚姻関係を結んでおらず子どももいないことから、それを「家族終了」と宣言した。そして結婚という形を選ばなかった理由を、自分の両親の姿を見て育つ中で家族という制度に不信感があったからと述懐している。

世代は違えど、いま日本を代表するようなこの2人の女性オピニオンリーダーが家族というものを信じていない、あるいはそれに価値を見いだしていないことに、私は「現代」を感じる。家族がみんな温かいなにものかであるというのは幻想だ、家族である前に個であるということ、そこが満たされて個人が強くしなやかでいなければ、家族になっても不幸でしかないと彼女たちは言外に示す。孤独なままの個人たちがただ一つ屋根の下で空間を共有しているだけなのに、そこに気づかず温かげな何かの幻覚を見ている「夫婦」や「家族」はいまや多いのかもしれない。

最も弱い輪がちぎれる

虐待事件の多くで「夫」や「再婚相手」や「内縁関係の男」が子どもに加える虐待を止めることができず、そればかりか加担さえしてしまった女たちの姿が浮き彫りになるたび、私はそんな孤独な女たちこそがまず救われていれば、子どもが亡くなることはなかっただろうと、いつも思う。

なぜって、社会でも家族でも、負荷は常に弱いほうへ弱いほうへと順繰りにかかっていくものだからだ。一番弱い子どもの手前で負荷に耐えるのは、この場合、そしていまだ多くの場合でも、母親なのだ。その母親が負荷に耐えきれなかったとき、全ての負荷が小さく脆い子どもへと雪崩のように襲いかかる。「母親が救われているかどうか」は子どもにとって生命線だ。

家族問題でよく言われることだが、DVや不仲などで家族が機能不全となり軋んでいるとき、最終的にブツリと音を立ててちぎれるのは家族の中で最も小さく弱い輪だ。家族はブレスレットのようなもの。大きさも材質もさまざま、だがどの輪っかも当事者として丸くつながっている。どこかに負荷が掛かっても、それぞれが負荷を受け、同時に負荷をどこかへ逃がして、「負荷を持ち合う」ことができている間はいい。だがどこかの輪がブツリとちぎれたとき、その家族は文字通り「破綻する」のだ。

「児相」が機能すれば虐待は防げるのか

昨年来、新聞各紙やテレビのニュース番組でも事件の詳細は大きく取り上げられ、私たちはあらためて虐待問題が社会から絶えないこと、社会がいまだそれを防ぎきれず、対処しきれていないことを目の当たりにし、事件の反響は児童相談所間の連携や、港区南青山住民の児相建設反対運動に対する批判にまで波及した。

私たちは、自分たちの代わりに「そういう役所の人」がきっと解決してくれると思って、「児相、児相」と言う。だが、児相の数さえあれば、児相が連携して機能していれば、虐待は防げるのだろうか。「児相の“監督”がちゃんと行き届けば、われわれ良心的な市民の通報によってそんなけしからん親は処罰されて、普通の市民は安心して眠りにつける」のだろうか。

それは、児相という「自分とは関わりのない場所」に、虐待という「自分とは関わりのないよその家の問題」をひとごととして押し付けるだけにすぎない。

「社会で子どもを育てる」の本当の意味

家族という幻想をいまだに見ている私たちは、「それは社会が(自分が)介入すべきではない」と判断してしまい、社会で子どもを育てるという意識が薄れている。先日、エッセイストの犬山紙子さんの夫でミュージシャンの劔樹人さんが新幹線のデッキで大泣きする娘をあやしていたところ、他の乗客に誘拐を疑われ、警察に通報されて取り調べを受けたとの一件があった。

誰かがなにかを疑問に思ったのなら、警察に通報する前にたった一声かければよかったのに、と思う。「どうしたの、大丈夫?」と。そして一緒にあやしてあげればよかったのに、と思うのだ。

監視して通報して当局に対応させる、のじゃない。困っている人を見て、手を貸す。そんな小さなことが、つまり社会で子どもを育てるということなのじゃないか。

国内外からどうこう言われながらも、日本は世界の中で否定し難くトップレベルで豊かな国だ。それなのに私たちの社会は温かげな何かの幻覚をぼんやりと見たままで、現実社会のどこかで最も弱い輪に負荷が掛かってブツリとちぎれ、小さい命が失われてしまうのを、いまだに救うことができない。