育休中、同僚からの退職メールが続々と
自分の仕事は楽しかったが、一方で社内の雰囲気は悪化していた。社長の交代劇があり、ハードな働き方が常態化していたこともあって離職率は28%にまで上昇。同じ頃、中根さんは第一子出産のため9カ月の産休・育休に入る。休暇中も、同僚から退職を知らせるメールが続々と届き、自分もこのまま復帰せずに転職しようかと悩んだ。
「転職を思いとどまったのは、青野(青野慶久社長)が『皆がワクワクできる会社へ変える』と強い決意を語ってくれたから。夫の『自分で選んだ会社なんだから変える方向へ頑張ってみたら』というアドバイスも背中を押してくれました。あの2人の言葉がなかったら復職していなかったと思います。加えて、社内で短時間勤務制度が始まっていたことも大きかったですね」
復帰後は青野社長の言葉通り改革も進み、第二子の出産後はもう悩むことはなかった。中根さん自身も会社を変えていこうと、法務部に所属しながら人事制度改革にも取り組む。やがて離職率は約4%にまで減少し、その成果から人事部長にと声がかかった。
仲間を頼らず、抱え込みすぎた自分を反省
このとき30代前半。ずっと歩んできた法務畑からの職種転換には戸惑いもあったが、「何となく丸め込まれて」引き受け、目の前の課題を懸命にこなすうちに「人事脳」になっていったそう。仕事もだんだんと楽しくなり、37歳のときには人事や経理財務、法務を統括する事業支援本部長へと昇格した。
「事業支援本部長を引き受けるのは、前任者の山田理(現・副社長)が偉大だったこともあってかなり悩みました。2人の子育てをしながらでは荷が重いなとも思いましたね。でも、同僚の女性が『あなたが本部長をやるなら一緒に頑張る』と言ってくれたので決断できました」
翌年には執行役員に就任。ここまでの道のりを、中根さんは「ヘコんでは立ち直るの繰り返し」と語る。例えば新人研修を任されたときは、仲間に頼らずすべての段取りを1人で担当。それだけでも手に余るのに、さらに他部署の研修内容まで徹底的に理解し説明しようとした。結果、人前でボロが出て恥ずかしい思いをすることに。中根さんは抱え込みすぎた自分を反省し、「役割分担したほうがクオリティーが上がる」と肝に銘じるようになった。