「旅」となって結実した試み

昭和天皇は、現憲法の施行後も君主として振る舞おうとし、政治的な言動を止めなかった。それは明らかに国事行為の範囲を逸脱したものだった。今上天皇はそれにならうつもりはなかったが、かといって、限定的な国事行為にとどまるつもりもなかった。そのような形式主義に陥れば、天皇の権威を確立できず、皇室の存在意義も疑われる恐れがあったからだ。

ではどうするか。天皇は「象徴」という部分を解釈し、「公的行為」を拡充することをもって突破口とした。象徴という言葉は、国事行為にくらべて厳密に定義されておらず、柔軟に運用する余地があった。国事行為と私的行為の中間に位置する、公的行為についてもまた同じだった。天皇は象徴と公的行為のふたつによって、憲法を守りつつも、形式主義に陥らない、象徴天皇制の理想的な姿を追求しようとしたのである。

このような天皇の試みは、旅となって結実した。日本各地や世界をまわり、ひとびとと直に接することで、国民の統合や国際親善を図ること。それが、天皇の考える公的行為の核心だった。

「災害の見舞い」と「戦争の慰霊」は平成で確立した

辻田 真佐憲『天皇のお言葉 明治・大正・昭和・平成』(幻冬舎新書)

なかでも災害の見舞いと戦争の慰霊は、その枢要を占めた。現在では天皇の代表的な姿とも目されているこのふたつの行為は、じつは平成の時代になって確立されたものなのである。

災害の見舞いは、皇太子時代を除くと、1991年を嚆矢とする。6月3日、長崎県島原半島の雲仙岳で大規模な火砕流が発生した。天皇は7月10日、早くも皇后とともに同県へ向かった。そして避難場所を訪れると、ときに地べたに正座して、被災者の話に熱心に耳を傾けた。この驚くべき低姿勢、被災者目線は、保守派の論客から批判されるほどに斬新なことだった。

天皇は、この年の誕生日会見(事前に行なわれ、当日の12月23日に一斉公開される)でも、つぎのように被災者への思いを語った。

国内では、雲仙・普賢岳の噴火による災害や、台風による災害で、多くの人命が失われたことは誠に残念なことでした。殊に雲仙・普賢岳の噴火は依然として続いており、終息する兆候も認められません。長い避難生活の苦労は、はかり知れないものと察しております。

災害の見舞いは、1993年の北海道南西沖地震、1995年の阪神・淡路大震災、2004年の新潟県中越地震、2007年の新潟県中越沖地震、2011年の東日本大震災および長野県北部地震、2014年の8月豪雨、2015年の9月関東・東北豪雨、2016年の熊本地震、2017年の九州北部豪雨でも、欠かさず行なわれた。復興状況を確認するとして、数年後に被災地を訪れることも「平成流」だった。