担当者不在で報告書を急ピッチで作り上げた

その後も異動してさまざまな業務を経験。社会人大学院で企業法学も学んだ。そして、広報・IR部で管理職に。当時は私生活でも苦労が重なった。

(中)IRチームの同僚たちと(下)女性役員の異業種交流会

「父が亡くなり大阪で暮らす母の介護に通うように。さらに夫がドイツに赴任したのでそちらにも行き、東京、大阪、ミュンヘン間を飛び回る慌ただしい生活を送っていましたね」

98年、オリックスはニューヨーク証券取引所に上場。グローバル企業として、広報ではグループに配布する英語と日本語の2カ国語で社内報を作るようになった。同時にIRとして四半期決算を発表する任務を負う。

「日本でいうところの有価証券報告書を提出しなければならず、それを読む海外の投資家の目は厳しいです。しかし、その担当者が突然、繁忙期に辞めてしまって、ピンチに陥ったことがありました。4月にそれが起こり、それでも報告書を6月末までに完成させなければならなくて……」

報告書のデッドラインとクオリティー。そのどちらもクリアしなければならない状況で、チームメンバーが一丸となって、なんとか報告書を作り上げた。

「まさに修羅場でしたね。そこで得た教訓は、仕事を属人化してはいけないということ。あのときのように退職というハプニングがなくても、担当者不在という事態は起こりうるわけですから。そして、次世代を育てていくというマネジメントも大事だと、本当に身に染みました」

管理職として人材を育成するということに目が向いた。そして、広報・IRの分野で9年のキャリアを重ね、後進も育ってきたタイミングで異動し、部長に昇格。その後、入院・手術という試練を乗り越え、女性初の執行役員という扉を開く。