大正時代の華やかな社交界で今ならインフルエンサーのように注目を集めた女性がいた。ノンフィクション作家の平山亜佐子さんは「江木欣々が出した性の指南書『女閨訓』には、夫をよろこばせるためならなんでもやれ、という欣々のエキセントリックな思想が垣間見える」という――。

※本稿は、平山亜佐子『戦前 エキセントリックウーマン列伝』(左右社)の一部を再編集したものです。

江木欣々。『書品(73)』東洋書道協会、1956年
江木欣々。『書品(73)』東洋書道協会、1956年発行

大正モダンの東京に君臨した「サロンの女王」

江木欣々えぎきんきんについて書かれたもっとも有名な文章は、長谷川時雨『近代美人伝』だろう。

「美貌と才気と芸能と社交で東京を背負った」と評され、サロンの女王として君臨していた1916(大正5)年当時、神田淡路町にあった欣々の家の豪奢なインテリアと装いを長谷川時雨はあますことなく伝えている。

胸の張りかた、つまの開きかた、それは日本服であって立派な夜会服イブニングのかたちだ。肩から流れる袖のひだなど、実になめらかに美しい。そして、胸のふくらみから腰から脚へかけての線など、その豊饒ほうじょうな肉体の弾力のある充実を、めざましく、ものの美事に示している。 切子の壺のような女性ひとだ、いろんな面を見せてふくざつにキラキラしている。
(中略)
彼女が立ったとき、椅子のふちにかけた手は、妖しく光った。指輪にしてはあまりにきらめかしいと見ると、名も知らないような宝石たまが両の手のどの指にもきらめいているのだ、袖口がゆれると腕輪の宝石いしが目を射る、胸もとからは動くとちらちらと金の鎖がゆれて見える。

まるで菊池寛の大ヒット小説『真珠夫人』かと思うような描写が続く。

愛する夫は「今を時めく、在野の法律大家、官途を辞してから、弁護士会長であり法学院創立者であり、江木刑法と称されるほどの権威者」である法律家、江木ちゅう(まこと、とも)。

九条武子、日向きむ子と並んで大正三美人の一人といわれ、豪奢な自宅を開放するサロンの女王、江木欣々とは、いったいどんな女性なのか。

愛媛県知事の娘、16歳で50歳の男爵と結婚

本名は栄子。生年は1877(明治10)年とも79(明治12)年(墓誌)ともいわれる。

父は初代愛媛県知事の関新平、母は関家の女中の藤谷花。関が大審院判事として東京へ単身赴任中、女中の花との間に栄子が生まれた。関新平と花は結婚したともいわれるが、別れることとなり、栄子は京橋区木挽町の古道具屋に養女に出されたのち、5歳頃に本所緑町の顔役(親分)の田岡某にもらわれ、以来母親とは生涯会うことはなかった。その後、養父の病死で養家が困窮したため、新橋の花街で半玉となった。

父親である関新平・初代愛媛県知事
父親である関新平・初代愛媛県知事(写真=海南新聞社『愛媛県人物名鑑 第四輯・五輯』、1924年/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

九州の細川家の元家老職で50代の有吉立愛男爵(1840〜1893)に16歳で落籍され正妻となるも夫は1年あまりで病没。有吉家を出されて再び花柳界に戻り、神田明神下の講武所で芸者となった(新橋の置屋「松屋」の芸者ぼたんとなったとする説も)。

美貌芸者として名をはせ、明神下の開花楼で開かれた弁護士たちの宴会で19歳年上の江木衷と出会い、間もなく結婚した。