※本稿は、平山亜佐子『戦前 エキセントリックウーマン列伝』(左右社)の一部を再編集したものです。
大正モダンの東京に君臨した「サロンの女王」
江木欣々について書かれたもっとも有名な文章は、長谷川時雨『近代美人伝』だろう。
「美貌と才気と芸能と社交で東京を背負った」と評され、サロンの女王として君臨していた1916(大正5)年当時、神田淡路町にあった欣々の家の豪奢なインテリアと装いを長谷川時雨はあますことなく伝えている。
(中略)
彼女が立ったとき、椅子のふちにかけた手は、妖しく光った。指輪にしてはあまりにきらめかしいと見ると、名も知らないような宝石が両の手のどの指にも煌めいているのだ、袖口がゆれると腕輪の宝石が目を射る、胸もとからは動くとちらちらと金の鎖がゆれて見える。
まるで菊池寛の大ヒット小説『真珠夫人』かと思うような描写が続く。
愛する夫は「今を時めく、在野の法律大家、官途を辞してから、弁護士会長であり法学院創立者であり、江木刑法と称されるほどの権威者」である法律家、江木衷(まこと、とも)。
九条武子、日向きむ子と並んで大正三美人の一人といわれ、豪奢な自宅を開放するサロンの女王、江木欣々とは、いったいどんな女性なのか。
愛媛県知事の娘、16歳で50歳の男爵と結婚
本名は栄子。生年は1877(明治10)年とも79(明治12)年(墓誌)ともいわれる。
父は初代愛媛県知事の関新平、母は関家の女中の藤谷花。関が大審院判事として東京へ単身赴任中、女中の花との間に栄子が生まれた。関新平と花は結婚したともいわれるが、別れることとなり、栄子は京橋区木挽町の古道具屋に養女に出されたのち、5歳頃に本所緑町の顔役(親分)の田岡某にもらわれ、以来母親とは生涯会うことはなかった。その後、養父の病死で養家が困窮したため、新橋の花街で半玉となった。
九州の細川家の元家老職で50代の有吉立愛男爵(1840〜1893)に16歳で落籍され正妻となるも夫は1年あまりで病没。有吉家を出されて再び花柳界に戻り、神田明神下の講武所で芸者となった(新橋の置屋「松屋」の芸者ぼたんとなったとする説も)。
美貌芸者として名をはせ、明神下の開花楼で開かれた弁護士たちの宴会で19歳年上の江木衷と出会い、間もなく結婚した。
法曹界の俊才である19歳上の江木衷と再婚
2人はもともと顔見知りで、衷が東大法科生のころ、下宿先に洗濯屋の御用聞き(一説には弁当の仕出屋ともいわれる)に来ていた美少女が栄子だったといわれている。結婚後は衷に勧められるままに詩、書、画、篆刻、謡曲と趣味を広げ、才人ぶりを見せて社交界の花形となった。
異母妹に悦子、藤子、ませ子がおり、ませ子は美人画家の鏑木清方の最高傑作「築地明石町」のモデルとして知られる。また、戦後の国際派女優・谷洋子も親戚である。
江木衷は1858(安政5)年に岩国藩士江木俊敬の次男として生まれ、7歳の時に父親を亡くす。18歳で文部省にいた兄を頼って上京、東京開成学校(現東京大学)に特待生として入学してイギリス法を学んだ。成績優秀ではあったが悪戯や悪ふざけも多く、教授に議論をふっかけて授業を潰したりもしていたという。
1884(明治17)年、法学部を主席で卒業し警視庁を経て司法省に入省。翌年には英吉利法律学校(現中央大学)を創設する。1887(明治20)年に上梓した『刑法汎論』(東京法学院)が大当たりし、一躍時の人となる。大日本帝国憲法発布2年前のことである。1900(明治23)年、フランス法を基礎とする政府とイギリス法を支持する東京開成学校派閥とが対立し、マスコミまで巻き込んで激論となったいわゆる「法典実施延期戦」が起こる。結局、江木たちイギリス派が延期を勝ち取った。
政治家や俳優らが江木邸に集う華やかな日々
1893(明治26)年、弁護士法制定を機に弁護士事務所を開業。その後も、東京弁護士会会長を二度務め、法典調査会、法制審議会の委員に就任して民法、商法、刑法、刑事訴訟法などの立法作業に参画し、陪審法制定に尽力する。大逆事件と教科書裁判を除き、明治・大正期の有名事件のほとんどすべてに関与したといわれる切れ者だった。
また、『近世女流文人伝』には、「社会のあらゆる階層の人々が、江木邸に来訪し、常に門前市をなしていた。政治家あり、弁護士あり、医師あり、新聞記者あり、書家あり、画家あり、俳優あり、実業家あり、稀には『奥さんご機嫌伺いに』などと称して、小遣銭をせしめて行く風来坊もやって来た」とある。孫文や胡瑛(ともに中国の政治家)が来日する際も江木邸に寄ったというから、その地位も察せられる。
なお、衷は乱費家で、骨董でも土産でも値段を見ずに大量に買い込んだ。
派手好きで物事に頓着しない、豪快な気質だった。
豪華な調度品、移動は常に2頭立ての馬車で
しかし、過剰さでは欣々も負けてはいない。
忙しいさなかでも夫の食事はすべて手ずから料理し(これは料理人を置く上流階級としては異例)、夫の来客が重なった場合は待たせる間に居間に飾った3月節句の羽子板百数十枚を紹介してもてなす。この羽子板は毎年数枚注文しており、姪の妙子が雑誌『女子文壇』に「江木妙子さんのもらった秘蔵の羽子板」として披露している20枚は欣々からのプレゼントと思われる。
また、長谷川時雨が訪れた際に見せられたのは、広間の半分を占めるほどに飾られた雛人形だったという。
江木家の移動は常に黒塗りの2頭立て馬車、そのための馬を飼い、書生4人、女中7人と住んでいた。1903(明治36)年に建てた軽井沢の別邸「遠近山荘」に行くときは汽車の2等車を1両貸切にし、涼をとるため車中に氷の柱を立てさせた。また、当地の顔馴染み一人一人に土産を渡すため、荷物は膨大だったという。
「日に何度も着換えて来客に見せびらかす」
衣装道楽でも有名で、本人は来客の際に着替えるだけで普段は質素なので噂を打ち消して欲しいと雑誌『世の中』記者に訴えたが、かえって口絵に大きく扱われている。
なお、別の雑誌には「江木栄子さんのように日に何度となく着換えて来客に見せびらかす人は余りあるまい。来客と半時間も談話すると、ちよっと中座するが再びにこやかに入り来られたのを見ると、お召し物が早くも変っている」(『楽天パック』)と皮肉られている。
かなり一般人と感覚が違うようである。
何不自由なく暮らしているように見える欣々だが、一つだけ叶わない夢があった。それは養子はいるものの実子がいないことである。
身内がいない寂しさをことあるごとに語っていたが、1921(大正10)年、私立探偵の岩井三郎が異父兄弟を探してきた。母の花は欣々を産んだ後に早川家に嫁いで二男一女を成していた。そのうちの一人が、シャープ創業者の早川徳次である。
徳次は当時すでに社名の元となる製品、シャープペンシル(当時の呼称は「金属繰出鉛筆」)の開発を手がけていたが、それでも今日のような成功はまだ先のことである。
シャープ創業者の早川徳次が異父弟だった
徳次はすぐに姉と兄に連絡し、3人で江木邸から差し向けられた馬車に乗って訪問。欣々は母のように優しく迎え、衷を紹介し、徳次らの苦労話に涙した。そして別室に促すと、そこにはこの日のために招待していた知人、友人らが控えていた。政治家の尾崎行雄や大逆事件、シーメンス事件の弁護をした政治家で弁護士の花井卓蔵らの顔も見えた。
華々しい宴会が終わり、徳次は永田雲堂描く「牡丹と蘭」の掛け軸と大きなデコレーションケーキを土産に持たされたが、ケーキが何なのかわからなかったという。
欣々にとって、妹弟が見つかったことは相当嬉しかったようで、以降早川家との交流は死の間際まで続いた。
新婚女性向けに出した性指南書の驚愕の内容
ところで欣々といえばぜひとも紹介しておきたい本がある。その名も『女閨訓』(1906年)。毛筆を凸版にした30ページ弱の小さな本で、欣々の著書である。
内容は新婚女性のための性の指南書だが、妻が習得すべき体位をはじめ、月経時や出産後50日の間(つまりセックスできない間)に用いる技、口取(フェラチオ)や衆道(アナルセックス)などが事細かに書かれているのである。当時、オーラルセックスは吉原などの遊女しかやらなかった。それを元芸者とはいえ名士の妻が一般女性に勧めているのだから、かなり異様な話ではある。
この本を貫いている思想は、夫をよろこばせるためならなんでもやれ、という一点に尽きる。つまり、夫が遊女などにうつつを抜かさないためには妻が遊女たれ、というわけだ。この本を見ても、夫に滅私奉公する欣々のエキセントリックな思想が垣間見える。
関東大震災で邸宅を失い、2年後には夫が死去
栄華の日々もある日を境に歯車が狂い出す。
まず、1923(大正12)年9月1日、関東大震災で江木邸は灰燼と化した。一家は軽井沢の別邸にいて難を逃れたが、貴重な書物や豪華な家財道具をはじめとする一切が焼失した。
2年後には衷が風邪をこじらせた肺炎によって逝去。この世の頼みとしていた夫が亡くなったことで、欣々は鬱状態に陥る。伯爵家などとの縁談もあったがすべて断り、1929(昭和4)年、練馬の豊島園の近くに移り、引きこもった。なぜ豊島園かといえば、震災の翌年に、共同で土地を借り上げて家を建てる本邦初のコーポラティブ「城南田園住宅組合」に参加したため。この辺りは城南文化村と呼ばれる地域となった。
ちなみに「引きこもった」とはいえ、小高い丘に「梅仙山荘」という1軒と、茶室、東屋、小祠を作り、さらに「待我帰軒」と名付けた一軒も建て増して、引越しの祝いには旧知の千人を1回に数十人ずつ1カ月間招いたというから、欣々健在なりというところ。
美貌が衰えるのが怖くて…、みずから命を絶つ
しかし、次第に訪ねる人も遠のき、1930(昭和5)年2月20日、保養先の大阪の早川家にて縊死した。その際、定紋のついた紫の風呂敷で顔を覆っていたと言われている。欣々の死後、長谷川時雨は妹のませ子に話を聞きにいった。
日く「姉は惜しい人でしたわ、育てかたと、教育のしようでは河原操さん(引用者注:内蒙古カラチン王府に家庭教師として迎えられ、日本のスパイの手引きもした人物)のようなお仕事をも、したら出来る人だったと思います」「私がはじめて淡路町へいったころは、毎晩宴会のようでした。あっちにもこっちにも客あしらいがしてあって――江木の権力と自分の美貌からだと思っていたから。だから顔が汚なくなるということが一番怖い、それと権力も金力も失いたくない。それが、震災で財産を失したのと衷に死なれたのと年をとって来たのとが一緒になって、誰も訪ねて来なくなったのが堪らなかったらしいのです」。
晩年は、どんな死に方がきれいかとか苦しくないかとの話をしていたという。
権力と美貌がなくなるから自殺したと言われると、そんな単純な理由だろうかと疑問に思わないでもないが、実の妹の言であること、大きな理由と思われる孤独の原因に権力と美貌が関係しているとすれば、やはりそう言うしかないのかもしれない。
それにしても、自死した姉のことを他人事のように話す妹もちょっと珍しい。
華やかな場でしか生きられない女性だった
欣々の死後、新聞や雑誌はこの話題で持ちきりになった。例えば、歌人の杉浦翠子は軽井沢に土地を見に行った際、この辺りに住むならぜひ江木邸を訪問すべしと地元民が口添えしたり、菓子屋に入れば江木家の紋の入った饅頭が売られていることに驚いたと書いている(『欣々女史趣向の饅頭』〈上〉〈下〉)。
彼らは江木家が持つ何万坪だかの別荘に祀ってある小社のお祭りの際に、反物一反ずつや、紋入りの饅頭などをもらうらしい。その数、400軒だとか。しかし、饅頭を「たいしておいしくもない」と評する翠子の反応を見るに、江木衷の金に糸目をつけない大仰な生活、それを盲目的に信じて十二分に応えようとする欣々という夫婦は、ちょっと戯画的な捉えられ方をされていたのかもしれない。
震災後に都市は変貌し、メディアやインフラがより一層発達した。明治から続いた特権階級の時代と、大衆が主役の昭和時代に挟まれた「歴史の踊り場」といわれる大正時代を象徴するような女性であった。
