精神的にも経済的にも自立した女性でした
姉たちとは、年が離れていたので、当時の僕は孤独でした。戦争のショックもあり、立場が逆転したソ連人や中国人たちとの関係から、なるべく目立たないように……と内気になってしまったように思います。
父は自由な経済学者でしたから、戦前から「女性も手に職をつけておくべきだ」と主張していました。終戦後、仕事を失った父に代わり、母が姉の洋子とともに大連で洋裁店を開き、旧ソ連の兵隊の洋服をつくって生計を立てていました。2年もの間、家族の生活を支えた母は、精神的にも経済的にも自立した女性でしたね。僕はその姿を見て育ったので、常々「女性は偉い」と思っていました。
母親っ子だったので、幼稚園のとき、総代で貰った賞状を、いきなり母のところに持っていきみんなに笑われてね(笑)。母は兄のこともあり「この子を守らなければ」と思っていたのでしょう。遠足や修学旅行にもついてきてしまうほど過保護でした。中学くらいまでは、どこに行くにも母がついてきていたので、「勘弁してくれよ……」という感じ。反抗期はありませんでしたが、過保護から逃れたい気持ちは常にありましたね。高校進学で早稲田に入り、電車通学できるのがどんなに嬉しかったことか。
高校2年生のとき、写真部の部長になり、僕は突然はじけました。ここで大きく変化できたのは、自分から親の過保護を遮断したからだと思います。今まで抑えられてきたものが、一気に大爆発したのでしょう。
ただ、いまだに覚えているのが、幼い頃、母が僕の手を引いて歩きながら言った、「自分の得意なものを持たなきゃいけないよ」という言葉。これは、何度も何度も念仏のように言われました。あの当時としては、かなり最先端な教育だったのではないかと感じます。当時の僕は“得意なこと”の意味すらわかりませんでしたが、今振り返ると、大きな教えでしたね。