各界の著名人が、今も忘れえない「母の記憶」とその「教え」について熱く語る――。
僕の母は、1897年(明治30年)の生まれ。凛(りん)とした芯のある明治の女でした。東京・御茶ノ水の医者の家庭に生まれた母は、栃木の商人の家庭に生まれ、早稲田大学教授となった父とお見合い結婚。30代に入り、父がジュネーブの国際労働機関での仕事に挑戦することになり、欧州へと渡ります。この頃から、一家に変化が起き、次第にグローバルファミリーへの道をたどっていきます。
「出井家の思想は問題」居心地が悪くなり、家族で大連へ
後に一家は帰国し、東京で僕が誕生しました。僕は5人兄姉の末っ子で、上に姉が3人と、病気で14歳で亡くなった兄がいます。その兄を亡くした後、母は40歳という高齢で僕を出産しました。「兄が亡くなったのは自分たちのせいでは」という心の傷を負った夫婦の間に生まれたわけですから、それはもう溺愛されましたね。自分で言うのもなんですけど“スーパー坊ちゃん”(笑)。ものすごくおとなしくて、当時の友人からすれば「あのおとなしい出井がソニーの社長に? まさか!」という感じだったようです。
そうはいっても、幼少期はそれなりに苦労していて、終戦は中国・大連で迎えました。当時父は、早稲田大学の教授と東洋経済研究所の責任者を兼任していたのですが、時折「戦争には反対だ」という、自由な発言をしていたようです。
「出井家の思想は問題」とされ、特高警察が尋問に訪れたこともあったそうです。母が玄関前に立ちふさがり、「絶対に入れない!」と頑張ったらしい。母は身長170cmと体も大きかったので、ものすごい迫力だったでしょうね。そんな抵抗も虚しく、日本での居心地が悪くなった出井家は、家族で大連に移り住むことになります。
精神的にも経済的にも自立した女性でした
姉たちとは、年が離れていたので、当時の僕は孤独でした。戦争のショックもあり、立場が逆転したソ連人や中国人たちとの関係から、なるべく目立たないように……と内気になってしまったように思います。
父は自由な経済学者でしたから、戦前から「女性も手に職をつけておくべきだ」と主張していました。終戦後、仕事を失った父に代わり、母が姉の洋子とともに大連で洋裁店を開き、旧ソ連の兵隊の洋服をつくって生計を立てていました。2年もの間、家族の生活を支えた母は、精神的にも経済的にも自立した女性でしたね。僕はその姿を見て育ったので、常々「女性は偉い」と思っていました。
母親っ子だったので、幼稚園のとき、総代で貰った賞状を、いきなり母のところに持っていきみんなに笑われてね(笑)。母は兄のこともあり「この子を守らなければ」と思っていたのでしょう。遠足や修学旅行にもついてきてしまうほど過保護でした。中学くらいまでは、どこに行くにも母がついてきていたので、「勘弁してくれよ……」という感じ。反抗期はありませんでしたが、過保護から逃れたい気持ちは常にありましたね。高校進学で早稲田に入り、電車通学できるのがどんなに嬉しかったことか。
高校2年生のとき、写真部の部長になり、僕は突然はじけました。ここで大きく変化できたのは、自分から親の過保護を遮断したからだと思います。今まで抑えられてきたものが、一気に大爆発したのでしょう。
ただ、いまだに覚えているのが、幼い頃、母が僕の手を引いて歩きながら言った、「自分の得意なものを持たなきゃいけないよ」という言葉。これは、何度も何度も念仏のように言われました。あの当時としては、かなり最先端な教育だったのではないかと感じます。当時の僕は“得意なこと”の意味すらわかりませんでしたが、今振り返ると、大きな教えでしたね。
間口の広いところは、僕も踏襲している
「元気で育っているだけでいい」という考えだったので、怒られた経験もあまりなく、母は何事にも寛大でした。日本に引き揚げてきて成城の小学校に入学しましたが、実は僕、成城の幼稚園を受験して、見事に失敗しているのです。試験に「正しい日の丸を選びましょう」というあまりにも簡単な問題が出題されて、幼心にバカバカしいと思った僕は、思わず先生に「バカ!」と言ってしまいました。もちろん即落第。それでも母は怒らず、「言葉が足りない。何かもっとほかの言い方があるでしょう?」とやさしく諭されました。
母は、現在のお茶の水女子大学の出身で、“作楽(さくら)会”という仲間でよく集っていました。僕が家に帰ると、いつも明治の強い女性たちがワイワイにぎやかに議論している。母はヨーロッパでの生活を経て、考え方もいち早くグローバル化していたのでしょう。出井家の家庭、そして母が温かかったので、父のゼミの学生さんたちなどいつも多くの人が遊びに来ていました。終戦後の何もない時期でも、みんなにカレーライスを振る舞うなどしてね。そういう間口の広いところだけは、僕も踏襲できているのかなと思います。
“最大のライバル”は、死んだ兄
幼少期、大学教員の生活は豊かではありませんでした。父から受けるプレッシャーは一切ありませんでしたが、僕の人生において“最大のライバル”は、死んだ兄。家族の誰もが「譲治(兄)は優秀だった」としか言わないし、僕自身、兄と同じにバイオリンなど習い事をさせられましたが、「彼を超えた」と思ったことは一度もない。
父は、僕に兄を重ねていたのか、「大学に入ったら後を継いでほしい」と言いましたが、母は「あなたの好きな道を行きなさい」と言ってくれました。もともと自分が学者に向いているとは思わなかったし、父の背中を見て「本ばかり読んでいて、つまらない人生だな」と感じていたので、母のその言葉にはホッとしました。多くの苦難の中、信念をもって変化する人生に順応していった両親はすごかったなと思う。理想ではないけれど、いい夫婦でしたよね(笑)。
自分の型にはめず親は背中で見せてほしい
今から2年前、インドネシアの仏教の聖地・ボロブドゥールでご来光を眺めました。素晴らしい景色に感動し、その後飛行機に乗ったら、夢に両親が揃って出てきたのです。2人が僕の顔を見て、「もっと真面目に生きなさい」とか何とか言う。この期に及んで怒られる夢を見るなんて、やはり相当怖がっていたのかもしれません。その話を妻にしたら、「バカね、いつまでも親離れができなくて」と怒られました(笑)。
それ以来、両親の歴史や暮らしぶりが気になり、自分でも調べたりしていたんです。彼らの歴史を紐解くうちに、あらためて偉大さを感じましたし、「自分がどれほど愛されていたか」を痛感しました。
子育てで悩むお母さんは、何でも子どもの立場で判断したほうがいい。自分の型にはめず、背中で見せてほしいと思います。親には親の価値観があるけど、それを子どもに押しつけすぎるのはよくない。子どもは親の価値観を観察して、いいところだけを吸収し、そこに自分が発見したいいものをプラスしていくのが理想。子どもは親を超えなくてはならないわけだから。僕自身がそうですが、子どもが年を重ねて振り返ったとき“尊敬できる親”からの影響をあらためて実感するはずです。
1937年11月22日、東京都生まれ。成城小学校から成城中学校、早稲田高校を経て、早稲田大学政治経済学部経済学科卒業。60年、ソニー株式会社に入社。社長、会長兼最高経営責任者(CEO)を歴任。退任後、産業活性化や新産業、新ビジネス創出を目的とする「クオンタムリープ株式会社」設立。