そういえばよく日本のバレンタインデーの特殊性が海外と比較されたりするけれども、世界でも稀に見る恋愛下手の日本で、なぜこんな個人プレイ型のイベントが連綿と続いてきたのだろう? メンドくさい悩みが噴出するのは、もともと個人のコミュ力を低めに育成しがちな集団主義の日本社会の、さらに個人性を押し殺し空気を極限まで読まねばならないような日本的職場で、バレンタインを前にしてとつぜん「個人戦」に持ち込まれるからではないか。ならば集団主義社会の悩みは、集団主義で解決するのが一番だ。「みんなでやめる」という”集団的負ベクトル”よりは「みんなでお金を出し合って、みんなに配る」“集団的正ベクトル”のほうが気持ちも座りもいいだろうし、実際そういう解決に着地した職場もたくさんある。男性女性問わずみんなで、お茶の時間を見計らってオフィスでチョコフォンデュ大会(!)を繰り広げた職場もあるという。

コミュ力低めの日本社会でバレンタインデーが連綿と続くのは、昭和の時代、チョコに力を借り、チョコを媒介とした女性主導のコミュニケーションがその日だけ許されたことに端を発するのではないか。以来、チョコは日本のコミュニケーションツールとなり、バレンタインデーは気持ちのイベント、「みんなで」という関係性の確認をする日になったのだ。

だから、平成生まれのみなさんと同じ土俵では戦えない昭和生まれの人々は、色恋なんか関係なしに、バレンタインデーを盆暮れの付け届けと同じ、日本人の得意な四季折々の「お元気ですか」を確認するご挨拶的儀式の一つとして認定してはいかがか。いろんな雑念や邪念やコンプレックスを排して、楽になれると思うのだが……どうだろう?

河崎環(かわさき・たまき)
フリーライター/コラムニスト。1973年京都生まれ、神奈川育ち。乙女座B型。執筆歴15年。分野は教育・子育て、グローバル政治経済、デザインその他の雑食性。 Webメディア、新聞雑誌、テレビ・ラジオなどにて執筆・出演多数、政府広報誌や行政白書にも参加する。好物は美味いものと美しいもの、刺さる言葉の数々。悩みは加齢に伴うオッサン化問題。