いつから日本のバレンタインデーは「好きな男性にチョコレートを贈り想いを伝える日」から「社内で義理を果たす日」に変わったのだろうか。そもそも世界でもまれに見る恋愛下手の日本で、バレンタインデーというイベントはなぜ連綿と続いてきたのだろうか……?  

「最近、バレンタインデーってあんまり楽しそうじゃないですよね。好きな男性に……というよりは社内義理チョコ祭りの話題のほうがよく聞く感じ。河崎さん、社内義理チョコってどう思います?」と編集部からメールが来た。社会人経験15年以上、社内義理チョコ評論家(←ウソ)の私としては、これは答えなければなるまい。

先日、ネイルサロンで両手を預けて座っていたら、隣の席のマダムが結構な剣幕で昨今のバレンタイン事情について持論を述べていた。「最近の若い男の子はさ、若い時から美味しいチョコで甘やかされてるからダメよ。若いうちはクッソまずいチョコをもらって、でもそのチョコをもらったという事実に対して喜ぶのが若いうちのバレンタインであるべきなのよ。子どもや学生のうちからゴディバとかフツーにもらってサラッと食べてるなんて、そんなんじゃ世間の荒海渡っていけないよ!」……マダム、若い男子と何かあったのだろうか。

しかし日本のバレンタインチョコレート市場がインフレを起こしているのは事実だ。どこかのグルメ記事では「チョコレートも溶けそうなほどバレンタイン商戦が白熱」と書いていたけれど、海外や国内の有名メーカーやショコラティエがこの時とばかりにひと粒300円以上もするようなチョコレートを投入し、それを新旧の女子たちがさまざまな思惑で買い求めていく。

意中の誰かに手渡すだけでなく、自分で食べる、女友達と食べる、家族と食べる、職場で話の種にする、職場の女性陣でお金を出し合って職場の男性陣に配布する……。確かにそうやって、冒頭のマダムがお怒りのとおり、うら若い男子も含めた人々が高級チョコを口にしやすい文化はグルメ大国日本に定着したようだ。バレンタインデーに「告白→付き合う→そしてみんな未来永劫幸せに暮らしました」の少女漫画みたいな、やたらと温度湿度の高いドラマティックな意味が付加されていた昔に比べると、日本のバレンタインデーも義理チョコだ友チョコだマイチョコだ、カップ焼きそばにチョコソースだと、だいぶドライだったりユーモラスだったり、こなれたものになってきた。

メーカーや流通からすればシンプルに1~2月に投入する消費刺激の一つなわけで、80年代以降、世界に冠たる商品選択眼を持つプロ消費者として育成される日本の女子たちは、そのあたり、イベント消費であることは十分わきまえた上でお財布を開いているのである。

コラムニスト・河崎環さん

だがしかし、そこは女子である。単純なイベント消費に、こっそりとドラマ性を載せてどれだけ自分がヒロインになれるか? そんな企みをも挟んでくるのが、特に「若い女子」という狡猾な高コミュニケーション生物だ。「もう~、義理に決まってるじゃん!(ほっぺプクー)」と言いながら半分くらいは(あるいはもっと)「友達以上になってもいい」なんて下心があったり、本命チョコが複数用意されている(本命と目してるターゲットは複数いて、さらに滑り止めもある。受験と同じだ)くらいは序の口である。そういう女の二枚舌、三枚舌が、純粋な男子たちを幼い頃から振り回すのだ。ああ、女って怖い。

男子側からすれば、お母さんやお姉ちゃん、妹あたりからペコちゃん印の大手菓子メーカー製ハートチョコをもらうような平和な幼少期を過ぎ、ちょっと女子を意識する小学3年生あたりで「お前、クラスの女子からチョコもらったの?」と騒ぐようになり、中2、中3頃になると、もはや場合によってはチョコ1つで男子間に血が流れかねない程の思い詰め度を見せるのだ、とあるオトナ男子が語っていた。日本のバレンタインデーとは、チョコをあげる側にだけ、突如ドラマを仕掛け襲いかかる絶対的な主導権が渡されているという、残酷なほど非対称なイベントなのだ。生殺与奪の権が女子にのみ与えられているという恐ろしさ。思春期の男子たちの当日朝の緊張感を想像すると胸が痛む。

そんなわけなので、2016年の今、こんなにバレンタインデーというものが流通業界主導のチョコ祭りとなっているのに、学校時代のトラウマのせいで社内義理チョコの授受にさえ意図を深読みしたり深読みされたり、それを考えると一気に憂鬱になる旧男子も旧女子も、決して少なくないのだという。いやホント、日本国民全員、だいたいのこじらせというのは義務教育時代のトラウマのせいだ。そこで、「社内義理チョコが面倒くさい」という大人の声が出てくるのである。

そこで、「これは具体的には一体どういう心理なの?」と女子の気持ちの機微に詳しいオトナ女子に講義を願った。そもそも、その「メンドくさい社内義理チョコ」とは何なのかというと、社内で女子社員が上司や同僚、部下に対して普段お世話になっている気持ちの表現として「個人プレイで」渡す義理チョコなのだそうだ。ところが、渡し方のスマートさやらチョコ選びのこなれ感など、その女子本人のコミュ力やセンスその他が白日のもとにさらされる機会となってしまい、妙な明暗が生まれる。積極的に手作り菓子を配って、料理できるキャラ立てを企てる女子もいれば、渡す相手によってテーマを設定してチョコ選びを楽しむ女子もいるが、そういうこと自体が苦手な女子もまた多い。それに、職場での年次が上がってくればもう10年も20年も毎年続けてきてネタも切れ、いい加減飽きてくる。これは、お返しをする側にも同じことが言えるのだろう。

職場の人や上司に自分から渡すこと自体が恥ずかしいというタイプの女子もいる。周りがみんなやっているからって、自分まで流されるのがイヤ、というタイプもいる。逆に、職場で気を利かせて「もうバレンタインは廃止しましょう」などと取り決めができると、「でも私は日頃の感謝としてチョコを渡したい……。一人だけ足並み揃えないと、職場で嫌われちゃうかな」と悩む女子もいるらしい。「一口に女子といってもさまざまですよ」。そんな講義を聞いて、「チョコよりも、女子の心理がメンドくさいですね」と思わず私は正直な感想を漏らしてしまったのだった。でも、女子のメンドくささは往々にして女子本人が一番自覚しているものだ!

 

そういえばよく日本のバレンタインデーの特殊性が海外と比較されたりするけれども、世界でも稀に見る恋愛下手の日本で、なぜこんな個人プレイ型のイベントが連綿と続いてきたのだろう? メンドくさい悩みが噴出するのは、もともと個人のコミュ力を低めに育成しがちな集団主義の日本社会の、さらに個人性を押し殺し空気を極限まで読まねばならないような日本的職場で、バレンタインを前にしてとつぜん「個人戦」に持ち込まれるからではないか。ならば集団主義社会の悩みは、集団主義で解決するのが一番だ。「みんなでやめる」という”集団的負ベクトル”よりは「みんなでお金を出し合って、みんなに配る」“集団的正ベクトル”のほうが気持ちも座りもいいだろうし、実際そういう解決に着地した職場もたくさんある。男性女性問わずみんなで、お茶の時間を見計らってオフィスでチョコフォンデュ大会(!)を繰り広げた職場もあるという。

コミュ力低めの日本社会でバレンタインデーが連綿と続くのは、昭和の時代、チョコに力を借り、チョコを媒介とした女性主導のコミュニケーションがその日だけ許されたことに端を発するのではないか。以来、チョコは日本のコミュニケーションツールとなり、バレンタインデーは気持ちのイベント、「みんなで」という関係性の確認をする日になったのだ。

だから、平成生まれのみなさんと同じ土俵では戦えない昭和生まれの人々は、色恋なんか関係なしに、バレンタインデーを盆暮れの付け届けと同じ、日本人の得意な四季折々の「お元気ですか」を確認するご挨拶的儀式の一つとして認定してはいかがか。いろんな雑念や邪念やコンプレックスを排して、楽になれると思うのだが……どうだろう?

河崎環(かわさき・たまき)
フリーライター/コラムニスト。1973年京都生まれ、神奈川育ち。乙女座B型。執筆歴15年。分野は教育・子育て、グローバル政治経済、デザインその他の雑食性。 Webメディア、新聞雑誌、テレビ・ラジオなどにて執筆・出演多数、政府広報誌や行政白書にも参加する。好物は美味いものと美しいもの、刺さる言葉の数々。悩みは加齢に伴うオッサン化問題。