増えた年金と引き換えに失ったもの
診断は、重い脳梗塞でした。幸い命は助かりました。しかし後遺症が残りました。知世さんは長期間の入院を経て、自宅に戻ることはできたものの、以前のように自由に歩いたり動いたりすることが難しくなっていました。
言葉も少し不自由になり、日常生活にも介助が必要となりました。浅井さんは、リビングのソファに座ったまま、ぼんやり窓の外を見ている知世さんの姿を眺めながら、何度も同じことを考えるようになります。
「なんのために、ここまで年金を増やそうとしたんだろう……」
本来なら65歳から受け取れていた年金。本来ならもっと早く、夫婦で旅行に行けたかもしれない時間。本来なら、もっと穏やかに過ごせたかもしれない老後。
それらを「将来の安心」のために先送りした結果、気がつけば夫婦は、疲れきっていました。浅井さんは特に、知世さんを働かせてしまったことに強い後悔を感じていました。
「もう働かなくていいよ」
そう言ってあげればよかった。
スーパーの品出しやレジ業務で、知世さんは足腰を痛めても、「年金増えるから」と頑張り続けていたのです。もちろん、働いたことと病気の因果関係はわかりません。
誰も教えてくれなかった制度
しかし浅井さんの胸には、「自分が無理をさせた」という思いが重く残りました。さらに追い打ちをかけるように、後から年金事務所で思わぬ事実を知ることになります。
浅井さんは、配偶者である2歳年下の知世さんがいたため、本来なら「加給年金」の対象だったのです。「加給年金」とは、いわば、年金版の家族手当のような制度です。
しかし浅井さんは厚生年金を繰り下げたため、その間の加給年金は支給停止となっていました。年間約42万円。知世さんが65歳になるまでの間、本来受け取れるはずだった加給年金です。それが2年間で、およそ84万円。
浅井さんは、窓口で説明を受けながら呆然としました。
「そんな制度、誰もちゃんと教えてくれなかった……」
年金は増えた。けれど、その一方で失ったものも、決して小さくはなかったのです。