「教育を受けた看護婦を」という思い
規則ができたのは、明治33年(1900年)7月1日。東京府令第71号「東京府看護婦規則」として、全国に先がけて発令された。免許を受けられるのは、警視庁の試験に合格した満20歳以上の女子。この下限は、その後に規則を作った各府県のなかで最も高く、医師と同じ年齢だった。
ただし主眼は、和が求めた質の担保よりも乱立する看護婦会の取り締まりにあり、病院に勤める看護婦は適用の外に置かれている(平尾、前掲論文)。その1カ月前、和は20歳の娘を結核で亡くしている(毎日新聞出版、前掲書)。それでも和は回想をこう結んでいる。「時は早く4年を経過し、無免状の者は斯界に容れられぬようになった」と。
看護婦の資格が確立されたのは…
押さえておきたいのは、この規則が発令されたとき、後藤新平がもう衛生局にいなかったことだ。明治31年(1898年)3月、台湾総督府民政局長として台湾へ渡っている。待てと言った当人は、約束が形になる前に別の持ち場へ移っていた。
規則を引き寄せたのは、待っていた時間ではない。待つあいだに和たちが作った「矯風会」であり、講習所であり、入間郡での実績だった。看護婦の資格が全国で統一されるのは、さらに15年後の大正4年(1915年)、内務省令第9号によってである。
第19週の柳生も、「上には報告しておく」と言い残して村を去った。行政の人間が現場に約束を置いていく場面である。その柳生が、第23週「歩々清風」で再登場。これからりんたちの前に壁として立つ。壁になるのはおそらく悪意ではなく、全体を見る目と、制度が動き出すまでの時間のほうだ。「両三年」と言われて4年待たされた大関和の実話が下敷きにあるなら、柳生との再会は、正しさ同士がぶつかる場面になるのではないか。
・参考資料
奥州市立後藤新平記念館「後藤新平略年譜」「後藤新平絵物語(内務省衛生局時代/陸軍検疫所)」「収蔵品紹介(衛生局時代・検疫事業)」、平尾真智子「大正四(一九一五)年制定の『看護婦規則』の制定過程と意義に関する研究」(『日本医史学雑誌』第47巻第4号、2001年。大関和「看護婦界の困難」『婦人新報』1909年2月ほかを引用)、小島和貴「衛生官僚たちの内務省衛生行政構想と伝染病予防法の制定」(『法政論叢』第51巻第2号)、日本法令索引「伝染病予防法」(明治30年4月1日法律第36号)「医師法」(明治39年5月2日法律第47号)、毎日新聞出版『Newsがわかる特別編 大関和がわかる』、厚生労働省医系技官採用情報「伝説の医系技官 後藤新平」、国立国会図書館「近代日本人の肖像」(後藤新平、後藤象二郎)、栃木県観光物産協会「明治のナイチンゲール大関和のふるさと栃木を巡る旅路」、NHK「風、薫る」公式サイト・公式Xおよび各話あらすじ
1973年長野県生まれ。出版社、広告制作会社勤務を経てフリーライターに。ドラマコラム執筆や著名人インタビュー多数。エンタメ、医療、教育の取材も。著書に『大切なことはみんな朝ドラが教えてくれた』(太田出版)など