中村倫也が演じる内務省の役人
NHK連続テレビ小説「風、薫る」(脚本・吉澤智子、原案・田中ひかる『明治のナイチンゲール 大関和物語』)の第19週「黎明の翼」に、中村倫也演じる柳生藤次が登場した。新潟の赤痢の避病院に運び込まれた患者で、東京から来たというだけで感染源と疑われ、廊下に寝かされている。回復後に明かした素性は、現地調査に来ていてたまたま発病した内務省衛生局の役人だった。
出番は短い。だが番組公式の発表で、柳生は「りんと直美が新潟で出会う患者。後にふたりの大きな壁となる」と紹介されていた。看護婦として立とうとするりん(見上愛)と直美(上坂樹里)の前に、この男は別の顔でもう一度現れる。
モチーフは公式には明かされていない。ただ、内務省衛生局の役人という肩書きから浮かぶ人物がいる。後藤新平(1857〜1929年)。りんのモチーフである大関和が、看護婦の制度を求めて直接会いに行った相手である。
後藤は医師であり官僚、政治家。後の台湾総督府民政長官、満鉄(南満州鉄道)総裁、拓殖大学第3代学長、ボーイスカウト日本連盟初代会長、内務大臣兼(関東大震災後の)帝都復興院総裁とさまざまな顔をもつ。総理大臣候補にも数えられ、「金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ」という言葉を遺した。
医者から内務省の役人になった
後藤は安政4年(1857年)、仙台藩水沢城下(現・岩手県奥州市水沢)で、武士の家に生まれた。須賀川医学校で医学を修めて愛知県病院に勤め、24歳で愛知県医学校長兼愛知県病院長になる。明治16年(1883年)、衛生局長の長与専斎に見込まれて内務省へ。ドイツ留学を経て、明治25年(1892年)11月に内務省衛生局長に就いた(奥州市後藤新平記念館「後藤新平略年譜」)。大関和は安政5年(1858年)の生まれだから、2人は1歳違いである。
留学の前年、明治22年(1889年)には『国家衛生原理』を著している。生物の「生」を守るのが衛生であるとした本で、後藤自身の生涯の基調になったとされる(同記念館)。目の前の1人ではなく、全体の数で医療を見る視点である。
衛生局長の座を追われるが…
ここまで順調に見えるが、局長就任の翌年に転落する。明治26年(1893年)11月、旧相馬藩主家をめぐる相馬事件に連座して入獄。無罪判決が出たのは翌年5月で、そのときには衛生局長の職を失っていた。
復帰の場は感染症対策だった。明治28年(1895年)4月、臨時陸軍検疫部事務官長に任じられる。日清戦争の戦場から帰ってくる兵をコレラごと国内に入れないための検疫である。広島・下関・大阪の3カ所に検疫所を突貫で建て、23万2346人の帰還者から369人のコレラ患者を見つけた(同記念館「後藤新平絵物語」)。この事業で評価を取り戻し、後藤は同年9月、再び衛生局長に就く。
「風、薫る」では避病院の廊下に追いやられていた柳生が、りんの看護を受けて回復した途端に役人の顔を取り戻す。あの落差は、いったん失脚して伝染病の現場から戻ってきた後藤の来歴に重なる。
大関和が後藤と出会ったワケ
大関和が後藤を訪ねるのは、その翌年である。
和は明治29年(1896年)夏、新潟の高田から東京へ戻った。桜井女学校附属看護婦養成所の同期・鈴木雅(直美のモチーフ)が営む東京看護婦会で、秋から講習所の講師をつとめる。並行して、心臓を病んだ元農商務大臣・後藤象二郎(土佐藩出身)の付き添い看護もしていた(毎日新聞出版『Newsがわかる特別編 大関和がわかる』)。枕元についた後藤と、直訴した後藤が、同じ年に並ぶ。
講習所で和が頭を抱えたのは、看護婦の質だった。伝染病が流行するほど需要は増えるが、養成が追いつかず、素養のない者が看護婦を名乗って評判を落とす。和は一番町教会の植村正久牧師の前で泣きながら訴えた。植村は「お和さん、あなたはナイチンゲールでしょう。それじゃあ、まるでナキチンガエル(泣キチン蛙)じゃないか」と言ってなだめたという(前掲書)。
数字も出ている。東京府が規則案を諮問した際の理由書によれば、明治32年(1899年)7月の調査で東京市内の看護婦会は58カ所、会員は908人。府下の看護婦総数のおよそ8割にあたり、その多くが短期間で仕立てられた速成の看護婦だった(平尾真智子「『看護婦規則』の制定過程と意義に関する研究」)。
「両三年待つべし」と後藤
和は、看護婦を取り締まる規則そのものを国に作らせようと動いた。
その経緯を、和自身が明治42年(1909年)の『婦人新報』に書き残している。はじめは第七議会(1894年)への請願を目指して各看護婦会の会頭に相談し、奔走した。だが、ある議員の助言で、時の衛生局長に直接願い出ることに切り替える。そこで後藤から返ってきたのが、この答えだった。看病婦の社会も改良しなければならないが、まず医界のほうを先にしなければならないから、「両三年(3年ぐらい)待つべし」と(平尾、前掲論文に引用)。
医師の側の整備が先で、看護婦はその後。行政官としての筋は通っている。ただし、医師の身分を法律として定める医師法の成立は明治39年で、東京府が看護婦の規則を出すよりあとになる。一方、和の目の前では、一夜漬けの看護婦が白衣を着て患者の家に上がり込んでいた。待てる長さではなかった。
大関和が待たなかった4年間
だから和は、待ちながら別のことをした。講習所で生徒を育てる一方、信頼できる派出看護婦会を訪ね歩いて協力を求めた。同調者は増え、病院の看護婦や医師も加わって、明治32年(1899年)10月に大日本看護婦人矯風会が設立される。看護婦の職能団体としては最初のものとされる。同じ年、和は『婦人新報』で「伝染病看護法」の連載を始め、講習所の教材にもなる小冊子『派出看護婦心得』を出した。
現場にも出ている。明治31年(1898年)夏、赤痢が集団発生した埼玉県入間郡へ出張し、およそ100人の患者のうち亡くなったのは5人だけという結果を出した(毎日新聞出版、前掲書)。「風、薫る」第19週で柳生が「(赤痢の)死亡率を1割に抑えられた目覚ましい事例だった」と言い残す、あの数字を連想させる仕事である。
その4年のあいだ、後藤の衛生局も動いている。明治30年(1897年)4月に伝染病予防法が公布され、翌月施行された。市町村に伝染病院または隔離病舎を置くことを義務づけた法律で、後藤が衛生局長として伝染病対策にあたるなかで成立したものだ(小島和貴「衛生官僚たちの内務省衛生行政構想と伝染病予防法の制定」)。
第19週でりんが飛び込んでいく避病院は、この制度の上にある。看護婦の規則は後回しにされ、隔離の枠組みのほうが先に整った。
「教育を受けた看護婦を」という思い
規則ができたのは、明治33年(1900年)7月1日。東京府令第71号「東京府看護婦規則」として、全国に先がけて発令された。免許を受けられるのは、警視庁の試験に合格した満20歳以上の女子。この下限は、その後に規則を作った各府県のなかで最も高く、医師と同じ年齢だった。
ただし主眼は、和が求めた質の担保よりも乱立する看護婦会の取り締まりにあり、病院に勤める看護婦は適用の外に置かれている(平尾、前掲論文)。その1カ月前、和は20歳の娘を結核で亡くしている(毎日新聞出版、前掲書)。それでも和は回想をこう結んでいる。「時は早く4年を経過し、無免状の者は斯界に容れられぬようになった」と。
看護婦の資格が確立されたのは…
押さえておきたいのは、この規則が発令されたとき、後藤新平がもう衛生局にいなかったことだ。明治31年(1898年)3月、台湾総督府民政局長として台湾へ渡っている。待てと言った当人は、約束が形になる前に別の持ち場へ移っていた。
規則を引き寄せたのは、待っていた時間ではない。待つあいだに和たちが作った「矯風会」であり、講習所であり、入間郡での実績だった。看護婦の資格が全国で統一されるのは、さらに15年後の大正4年(1915年)、内務省令第9号によってである。
第19週の柳生も、「上には報告しておく」と言い残して村を去った。行政の人間が現場に約束を置いていく場面である。その柳生が、第23週「歩々清風」で再登場。これからりんたちの前に壁として立つ。壁になるのはおそらく悪意ではなく、全体を見る目と、制度が動き出すまでの時間のほうだ。「両三年」と言われて4年待たされた大関和の実話が下敷きにあるなら、柳生との再会は、正しさ同士がぶつかる場面になるのではないか。
・参考資料
奥州市立後藤新平記念館「後藤新平略年譜」「後藤新平絵物語(内務省衛生局時代/陸軍検疫所)」「収蔵品紹介(衛生局時代・検疫事業)」、平尾真智子「大正四(一九一五)年制定の『看護婦規則』の制定過程と意義に関する研究」(『日本医史学雑誌』第47巻第4号、2001年。大関和「看護婦界の困難」『婦人新報』1909年2月ほかを引用)、小島和貴「衛生官僚たちの内務省衛生行政構想と伝染病予防法の制定」(『法政論叢』第51巻第2号)、日本法令索引「伝染病予防法」(明治30年4月1日法律第36号)「医師法」(明治39年5月2日法律第47号)、毎日新聞出版『Newsがわかる特別編 大関和がわかる』、厚生労働省医系技官採用情報「伝説の医系技官 後藤新平」、国立国会図書館「近代日本人の肖像」(後藤新平、後藤象二郎)、栃木県観光物産協会「明治のナイチンゲール大関和のふるさと栃木を巡る旅路」、NHK「風、薫る」公式サイト・公式Xおよび各話あらすじ