深い関係を結んだ5歳年下の寬仁親王
重要なのは、麻生氏が学習院に在籍していた時代、同学年ではなかったものの、多くの皇族が同じ学習院で学んでいたことである。現在の上皇、常陸宮正仁親王、三笠宮家の甯子内親王、寬仁親王、宜仁親王である。
現在では愛子内親王が学習院大学を卒業してしまったため、学習院で学ぶ皇族は1人もいなくなった。
そのなかでも、麻生氏が深い関係を結んだのが、5年3カ月余り年下の寬仁親王だった。
寬仁親王は、工藤美代子氏との共著『皇族の「公」と「私」』(2009年)で、英国留学中に自分の部屋で麻生氏とウイスキーを飲みながら語らっていた際、麻生氏から「殿下のご結婚相手は、うちの妹ぐらいしかいませんよね」という話になったと回想している。
これが現実となり、寬仁親王は麻生氏の妹、信子氏と結婚する。これで麻生氏にとって寬仁親王は義弟になったわけで、やがて寬仁親王と信子妃の間には彬子女王と瑶子女王が誕生した。
麻生氏が小学3年生で学習院に編入することがなかったとしたら、おそらくそんな縁は生まれなかったであろう。地元の福岡県飯塚市でずっと育ったならば、麻生グループで実業家として成功をおさめ、政界に転じることもあったかもしれない。だが、学習院の人脈があるかないかは、決定的な違いを生んだはずである。
寬仁親王とつながる皇室典範改正
同じ学習院卒であるからこそ、麻生氏は皇族ともくつろいでウイスキーを飲むことができた。しかも、寬仁親王は、以前にも〈だから「愛子天皇」をどうしても認めない…「男系男子」を曲げない黒幕・麻生太郎を動かす"2人の死者"〉でふれたが、女性天皇や女系天皇に反対し、旧宮家の皇籍復帰を主張していた。
つまり麻生氏は、この寬仁親王の考えに沿う形で、今回、皇室典範改正にこぎ着けたことになる。
寬仁親王は、2006年1月4日付の毎日新聞でのインタビューに答え、「旧宮さま、元宮さまとの付き合いは深い。むしろ愛子さまの夫になった人が、突然『陛下』と呼ばれる方が違和感が強いのではないか」と述べていた。
また、『文藝春秋』(同年2月号)では、当時の天皇(現在の上皇)に「女性・女系容認」の意思があると受けとめられていたことに対しても、「(天皇が)女系を容認せよ、とか、長子を優先とか、そうおっしゃる可能性は、間違ってもありません。(略)非常に真面目なご性格からしても、そのような不規則発言をなさることはあり得ないでしょう」と述べていた。
この発言に対しては、宮内庁の羽毛田信吾長官は苦言を呈したが、寬仁親王はいっさいそれを気にせず、同種の発言をその後もくり返した(『サンデー毎日』2024年10月6日号)。
皇族としては珍しい、積極的な発言者だったのだ。