7月24日に公布された改正皇室典範は、10月24日に施行される。皇室史に詳しい島田裕巳さんは「改正を主導した自民党の副総裁、麻生太郎氏の皇室観は、皮肉にも『愛子天皇待望論』に相通じる」という――。
自民党の臨時役員会に臨む麻生太郎副総裁=2026年7月30日、東京・永田町の党本部
写真提供=共同通信社
自民党の臨時役員会に臨む麻生太郎副総裁=2026年7月30日、東京・永田町の党本部

学習院では「先輩・後輩」の間柄

同じ学校で学んだ者同士となると、誰だって親近感が湧きやすい。

皇室典範改正において中心的な役割を果たした自民党の副総裁、麻生太郎氏は「愛子天皇」待望論を封じた形になった。だが、麻生氏と愛子内親王は、ずいぶんと年齢は離れているものの、学習院では先輩と後輩の関係である。

今回はこの背景から、麻生太郎氏の皇室観を探っていくが、皮肉なことにそれは「愛子天皇」待望論と共通する。そのことについて、ここでは見ていきたい。

学習院は、近代になって生まれた学校としてはかなり特殊なものである。というのも、「華族」の子弟を教育することが創設の目的だったからである。戦後になっても、皇族はこぞって学習院で学んだ。学習院は幼稚園からはじまり、初等科、中等科、高等科、そして大学、大学院へと続いていく。学習院女子大学もあったが、今年4月に学習院大学に統合されている。

天皇の長子として生まれた愛子内親王も、幼稚園から大学まで一貫して学習院で学び、そこを卒業した。皇族としては「王道の学歴」ということになる。

麻生太郎氏のほうは、1940年の生まれである。戦前であり、当時はまだ華族制度が存続していたが、麻生家は華族ではなかった。麻生氏は、麻生グループの作った少人数制の麻生塾小学校に1947年に入学している。福岡県飯塚市でのことで、その第一期生だった。

運命を変えた学習院への編入

ところが、母の和子は、戦後において最も重要な政治家となった吉田茂の三女である。吉田が内閣総理大臣に再任されると、麻生一家は子どもの麻生太郎氏を含めて上京する。

その際、麻生氏は、学習院初等科3年に編入することとなった。麻生一家が上京したのは、吉田氏を支えるためで、そこから、皇族や旧華族、さらには政財界との関係が深い学習院が選ばれたようだ。

これが、麻生太郎氏のその後の運命を変えていくことになる。

麻生氏は、学習院大学新聞社によるインタビューに2007年に答えているが、編入したばかりの小学校で、思わぬ事態に遭遇する。

吉田首相は1951年、アメリカとの「日米安全保障条約(安保条約)」に署名した。これは戦後の日本のあり方を強く規定するものとなったが、社会からの反発は強く、幼い麻生氏はそのとばっちりを受けたという。

麻生氏は、「当時の世論には、祖父が結んだ日米安全保障条約に対する猛烈な反感があった。だから、吉田茂の孫ということで、私も攻撃の対象にされてしまったんだよ」と語っている。そんな政治の世界での出来事が、子どもにまで影響したのだ。

「けれど私は、なにくそ、という気持ちをずっと抱いて生きていたね」とも語っている。幼いながら、バッシングをはねのけるガッツがあったのだ。インタビューを受けた60代になっても、忘れられない痛みであったのだろう。

面白いのは、吉田首相との思い出である。麻生氏は、「祖父から、授業そっちのけで遊びに連れ出されたなんてこともあったな。車で一緒に、動物園や落語の寄席に行ったりしたんだ」という。時の首相が、授業を受けなければならない孫を遊びに連れ出すとは、今ならとても考えられないことだが、それほどまでにかわいがられた記憶が、麻生氏には残っている。バッシングや祖父との思い出は、麻生氏のその後に影響したはずだ。

深い関係を結んだ5歳年下の寬仁親王

重要なのは、麻生氏が学習院に在籍していた時代、同学年ではなかったものの、多くの皇族が同じ学習院で学んでいたことである。現在の上皇、常陸宮正仁まさひと親王、三笠宮家の甯子やすこ内親王、寬仁ともひと親王、宜仁よしひと親王である。

現在では愛子内親王が学習院大学を卒業してしまったため、学習院で学ぶ皇族は1人もいなくなった。

そのなかでも、麻生氏が深い関係を結んだのが、5年3カ月余り年下の寬仁親王だった。

寬仁親王は、工藤美代子氏との共著『皇族の「公」と「私」』(2009年)で、英国留学中に自分の部屋で麻生氏とウイスキーを飲みながら語らっていた際、麻生氏から「殿下のご結婚相手は、うちの妹ぐらいしかいませんよね」という話になったと回想している。

これが現実となり、寬仁親王は麻生氏の妹、信子氏と結婚する。これで麻生氏にとって寬仁親王は義弟になったわけで、やがて寬仁親王と信子妃の間には彬子女王と瑶子女王が誕生した。

麻生氏が小学3年生で学習院に編入することがなかったとしたら、おそらくそんな縁は生まれなかったであろう。地元の福岡県飯塚市でずっと育ったならば、麻生グループで実業家として成功をおさめ、政界に転じることもあったかもしれない。だが、学習院の人脈があるかないかは、決定的な違いを生んだはずである。

寬仁親王とつながる皇室典範改正

同じ学習院卒であるからこそ、麻生氏は皇族ともくつろいでウイスキーを飲むことができた。しかも、寬仁親王は、以前にも〈だから「愛子天皇」をどうしても認めない…「男系男子」を曲げない黒幕・麻生太郎を動かす"2人の死者"〉でふれたが、女性天皇や女系天皇に反対し、旧宮家の皇籍復帰を主張していた。

つまり麻生氏は、この寬仁親王の考えに沿う形で、今回、皇室典範改正にこぎ着けたことになる。

寬仁親王は、2006年1月4日付の毎日新聞でのインタビューに答え、「旧宮さま、元宮さまとの付き合いは深い。むしろ愛子さまの夫になった人が、突然『陛下』と呼ばれる方が違和感が強いのではないか」と述べていた。

また、『文藝春秋』(同年2月号)では、当時の天皇(現在の上皇)に「女性・女系容認」の意思があると受けとめられていたことに対しても、「(天皇が)女系を容認せよ、とか、長子を優先とか、そうおっしゃる可能性は、間違ってもありません。(略)非常に真面目なご性格からしても、そのような不規則発言をなさることはあり得ないでしょう」と述べていた。

この発言に対しては、宮内庁の羽毛田はけた信吾長官は苦言を呈したが、寬仁親王はいっさいそれを気にせず、同種の発言をその後もくり返した(『サンデー毎日』2024年10月6日号)。

皇族としては珍しい、積極的な発言者だったのだ。

1986年5月11日、両国国技館で相撲を観覧するチャールズ英国皇太子同妃両殿下、寬仁親王同妃両殿下
1986年5月11日、両国国技館で相撲を観覧するチャールズ英国皇太子同妃両殿下、寬仁親王同妃両殿下(写真=外務省大臣官房儀典官室/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons

“軽視”されているかのような悠仁親王

寬仁親王は2012年に66歳で亡くなってしまい、麻生氏は、その遺志を今回実現したともいえる。旧宮家が直接皇族に復帰するというわけではないが、養子という形で皇族になる道が開かれたからである。

ここで気になるのは、麻生氏にとっての秋篠宮家の悠仁親王の存在である。

たしかに麻生氏は、「悠仁親王殿下に至るまでの皇位継承の流れをゆるがせにしてはならない」とくり返し発言している。また、旧宮家からの養子案実現に力を入れたのは、将来において、悠仁親王が天皇に即位した際に、周囲に一人も男性の皇族がいなくなる事態を避ける必要がある、とも発言している。

ただ、今回の改正では、養子に入った旧宮家の男子には皇位継承の資格は与えないものの、その子どもについては男子であれば、継承資格を与えることとなった。

あたかもそのことが、改正の本当の目的であるかのように理解されている。しかも、親族である信子妃や彬子女王が養親になり、麻生氏が、将来の天皇の伯父や祖父の立場になるのではと見込まれている。

そうであるならば、麻生氏のなかで悠仁親王の存在は、実は“軽視”されているようにも思えてくる。

2025年9月7日、伊勢神宮参拝のため宇治山田駅に到着した悠仁親王殿下
2025年9月7日、伊勢神宮参拝のため宇治山田駅に到着した悠仁親王殿下(写真=リニー1佐/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

養子案実現に固執した「隠された動機」

重要な点は、悠仁親王が皇族としてはかなり「特殊な存在」だということである。

悠仁親王は、戦後の皇族として初めて、幼稚園から大学まで一度も学習院で学ばない道を歩んでいる。

そこには母親の紀子妃の意思が強く働いていると考えられるが、紀子妃自身は学習院の出身で、秋篠宮も同じである。しかも、紀子妃の父親や曾祖父は学習院の教授だった。紀子妃は学習院のことを熟知しているだけに、息子の教育は学習院には任せられないという、強い思いがあったように感じられる。

ただそれは、悠仁親王に皇族としては異色の道を歩ませることにつながった。それによって、秋篠宮家には、悠仁親王を天皇に即位させたくないという考えがあるのではないかとさえ思わせることになったのだ。

このことは、麻生氏を困惑させてきたのではないだろうか。皇族とともに学習院で学生生活を送ってきた麻生氏からしてみれば、将来において天皇に即位する可能性が極めて高い悠仁親王が一度も学習院で学んでいないことは、考えられないこと、あってはならないことであるはずだ。

政治家が、いくら皇室に親族がいるとはいえ、宮家の教育方針に対して公に異議を申し立てることなどできない。だが、内心でそうした思いを抱いていても不思議ではない。

そこに、麻生氏が旧宮家からの養子案をなんとしても実現しようとした「隠された動機」があったのではないか。

「愛子天皇」につながる麻生氏の皇室観

麻生氏には、学習院を経験してこなかった悠仁親王は「天皇にふさわしくない」という思いがどこかにあることだろう。

麻生氏自身、初等科3年から大学まで学習院で学んだ。しかも、政治家としての座右の銘に掲げてきたのが「天下為公」である。「天下は公のものである」というこの言葉を、麻生氏は政治的判断をする上で、常に念頭に置いてきたと述べている。

もちろん、麻生氏が「天下為公」の精神を学習院で身につけたと語っているわけではない。ただ、皇族や華族の教育機関として始まった学習院で、生え抜きを意味する初等科から学んだ経験が、麻生氏の皇室観と無関係だったとは考えにくい。

そうであるならば、自らの親族である皇族が養親となり、養子に入った男性の子どもを学習院に通わせる。自分と同じ道をたどらせることで、皇族にふさわしい教育を受けさせたい。そうでなければ、本当に皇位が継承されたとは言えないのではないか。

それが、麻生氏の皇室観ではないだろうか。

実は、国民のあいだに「愛子天皇」待望論が高まったのも、麻生氏と共通の思いがあるからではないか。国民は、学習院を完全にスルーしてしまった悠仁親王よりも、学習院一筋で成長した愛子内親王のほうが「天皇にふさわしい」と考えているのだ。

もしも今後、養子案が不調に終わったとすれば、麻生氏も案外、「愛子天皇」を望むようになるのかもしれない。なにしろ愛子内親王は、学習院という大事な「母校の後輩」であるからだ。

天皇皇后陛下並びに愛子内親王殿下(2022年12月23日)
天皇皇后陛下並びに愛子内親王殿下(2022年)(写真=外務省/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons