プロすら飲み込む「バズ至上主義」の恐怖
さらに恐ろしいのは、このバズ至上主義の潮流が、彼らのような異業種出身者だけの話に留まらないことだ。専門的な服飾学校でテーラリングを学んだ「ハサミを持つプロのデザイナー」たちでさえも、この狂騒に完全に飲み込まれているのである。
冒頭で触れたスキャパレリやヴァレンティノは、本来、オートクチュールの歴史を牽引してきた最高峰の職人技とエレガンスを誇るメゾンであり、現在のディレクターたちも名門校を出た確かな技術を持つ実力派だ。しかし、そうした本物のプロフェッショナルであっても、現代の資本主義社会でブランドを生き残らせるためには、美しいシルエットを追求するよりも「SNSで話題を独占するキャッチーで奇抜なアイコン」を投下せざるを得ないのだ。
服作りのプロフェッショナルであっても、現代では「バズを作る能力」がなければカリスマとして生き残れない。
かつて前述の泥だらけのスニーカーを生み出したデムナ(旧名デムナ・ヴァザリア)はその筆頭である。彼は名門服飾校出身の卓越したデザイナーでありながら、バレンシアガ時代に一貫してSNSのミーム(ネタ)や炎上を巻き起こす作品を発表し続け、『ミーム・マーケティングの帝王』とも評された。2025年7月に「グッチ」のアーティスティック・ディレクターに就任した彼もまた、現代のファッション業界を象徴するカリスマの一人である。
こうして「モノ本来の価値」は消失した
この戦略が常態化した結果、ファッション業界において「モノ(製品)本来の価値」は完全に消失してしまった。
素材の良し悪しや、縫製の美しさ、機能性といった客観的な評価基準はもはや意味を持たない。「歴史あるメゾンがわざと作った悪趣味アイテムだから」「あのミームの帝王がデザインしたから」というコンテキスト(文脈)だけが、そのアイテムの価値を決定づける。
消費者は、目の前にある奇妙なブーツや巨大な靴が本当に美しいか、あるいは実用的かについて、自分自身の目で評価することを放棄している。「世界的なブランドの最新作だから、絶対に価値があるはずだ」という思考停止のプロセスに陥っているのである。
中身が伴っていなくても、声が大きく、注目を集めることに長けた者が勝者となる。これは実力(品質)よりもエンゲージメントが勝つという、現代の評価経済の残酷な縮図だ。
ハイブランドのコレクションは、今や巨大なインフルエンサービジネスの舞台装置へと変貌を遂げたのである。
エレガンスを捨てたハイブランドの末路
そもそも、われわれは商品そのものではなく、それがもたらす「物語(ナラティブ)」を消費している。しかし、現在のハイブランドが生み出している物語は、極めて薄っぺらく、虚無的である。
クリエイターたちは、歴史ある老舗ブランドの「看板(ハコ)」という強大な権威を利用し、自らの影響力を手っ取り早く換金している。一方で消費者は、自らの空っぽな自己顕示欲を満たすために、その中身のない奇抜な記号(アイテム)に何十万円もの大金を支払い続けている。
エレガンスという普遍的な美しさを捨て、アルゴリズムと承認欲求の奴隷となったファッション業界の行き着く先はどこか。
「視覚的ノイズ」は、いずれ必ず見慣れられ、飽きられる。消費者の関心を惹きつけ続けるためには、さらに過激で、さらに悪趣味なデザインを投下し続けるしかない。それは終わりのない「奇抜さのチキンレース」である。
「あえてハズす」という名目のもとに不格好な靴を買い漁る人々は、いつか必ずその虚無感に気づく時が来る。高額な対価を払って手に入れたはずの「SNS上のエンゲージメント」が、自らの人生になんの実りももたらさないという事実に直面するからだ。
ハイブランドは今、歴史という遺産を切り売りしながら、SNSという底なし沼でバブルを享受している。しかし、真の教養を持った人々はすでに、こうしたノイズだらけの狂騒から静かに距離を置き始めている。美しさよりバズを優先したブランドと、それに踊らされるなんちゃって富裕層たちが演じる喜劇は、現代の資本主義社会が抱える病理を最も鮮明に映し出しているのである。
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