貧乏だった「旅館の少女時代」
1936年(昭和11年)2月、山口市湯田温泉にわずか6室の「常盤旅館」を創業したのは、高美さんの祖母、宮川常盤さんだ。
それから8年経った1944年に高美さんが生まれ、その後2人の妹も誕生した。一家が暮らすのはボイラーの隣の一室。大きな音が響いて、宿題をすることすらままならなかった。
旅館の経営と家計を握っていた祖母は、家族には厳しく、他人には優しい人だった。気の弱かった母は、旅館の皿洗いや洗濯、障子の張替えなどで一日中働き通し。一方、祖母は人を招いては花札に興じ、気前よく食事をふるまった。そのため家はいつも貧しく、父のポケットには小銭しか入っていなかった。
家中の家具に差し押さえの赤札が貼られていたことは、一度や二度ではない。母が嫁入りに持ってきた大切な着物も、すべてなくなった。
雨の日に旅館の名前が入った大きな傘を差して歩いていると、女の子たちがくすくすと笑う。彼女たちの手にあるのは、高美さんが欲しがっても買ってもらえなかった、かわいらしい傘。なぜうちはこれほど貧乏なのかと恨めしく思いながら、足早に女の子たちの前を通り過ぎた。
「ボロ旅館」だが「継がない人生は考えられない」
旅館の従業員たちと囲む食卓に並ぶのは、客が残したおかずや、野菜の煮物ばかり。しかしある日、祖母が上機嫌で出してきたのは鶏料理だ。「みんな栄養失調になっているから、これを食べよう」。高美さんが温泉祭りで買ってひよこから大切に育てた、名前を呼べば駆け寄ってきていたニワトリの姿は消えていた。かわいがっていた豚も、客の胃袋の中に消えた。おかげで今でも高美さんは、鶏も豚も食べられない。
それでも高美さんは、旅館を継がない人生を考えたことはなかったという。
「ボロ旅館でしたが、執着はありました。私が大人になったらいい旅館にしよう、父や母に楽をさせよう、と思っていました」
忙しい祖母や両親に代わって姉妹をかわいがり、当時はやっていたターザンの映画に連れて行ってくれたのは、従業員たちだ。誰かがお客からチップをもらったときには、材料を買ってきて皆で鍋を囲んだ。
子どもの頃の高美さんが最も熱中したのは、祖母が先生を招き生徒を集めて開いていた教室で琴や踊りなどを習うことだった。初めて踊ったのは4歳のとき。さまざまな楽器や踊りを覚えられることがうれしくて仕方なかった。テープに録音した先生の演奏を繰り返し聞きながら、屋根裏部屋で夜遅くまで琴を弾く。その甲斐あってみるみる腕は上がり、高校生になる頃には師範の免状を手にした。