信長は荒木一族と家臣を虐殺

同年11月19日に有岡城は開城した。一族の荒木久左衛門(池田城主だった池田知正のこと)が有岡城から尼崎付近に赴き村重と会談、尼崎城と花隈城の開城と引き替えに有岡城の妻子と家臣の助命を嘆願したが、村重は拒否した。信長は荒木一族と家臣、その家族たちを女子どもまで虐殺した。その数は総勢500人を下らないと言われる。

天正8(1580)年7月、信長家臣の池田恒興・元助父子が花隈城を攻め落とした。尼崎城の荒木村重は毛利領内に逃亡し、尼崎城も開城した。摂津の荒木遺領は池田恒興に与えられた。

法橋玉山 画作『絵本太閤記』3巻(国書刊行会)
有岡城(伊丹城)落城を描く『絵本太閤記』3巻(国書刊行会)大正6年(1917)、 国立国会図書館デジタルコレクション

信長の死後、生き残った村重の子

『寛政重修諸家譜』によれば、村重には二男四女がいたらしい。

村重の嫡男・荒木村次むらつぐ(村安。母は北河原三河守の娘という)は明智光秀の長女を妻に迎えており、この婚姻は信長の命によるものらしい。光秀を近畿担当とさせ、摂津の荒木村重、山城の細川藤孝と婚姻を結ばせたようだ。

しかし、父・村重の謀反で、村次夫婦は離縁を余儀なくされた。近年、本能寺の変の動機を、光秀家臣・斎藤利三の姻戚である長宗我部元親の苦境を助けるためという説があるが、光秀は娘婿の実家も助けなかったのに、家臣の姻戚のためにそこまでするかという疑問がある。村次は尼崎落城の折に父とともに逃亡し、本能寺の変後に秀吉に仕えた。そして、賤ヶ岳の合戦に参加して重傷を負い、歩行不能になり、38歳で死去したという。

次男・荒木弥四郎は「太閤(秀吉)につかふ」という。長女は池田勇人某(むろん昭和の総理大臣ではない)の妻となるが、有岡城落城で処刑される。末娘は大奥に入り、徳川秀忠・家光に仕えて「荒木」を名乗った。

【図表】荒木村重の家系
筆者作成