伊丹親興を滅ぼし、有岡城主に
元亀元年頃、荒木村重は「摂津の三守護」池田家のまとめ役となった。ところが、翌元亀2年にもう一人の和田惟政が討ち死にしてしまう。
そして、元亀4(1573)年に義昭が信長に反旗を翻した時、主の池田知正、伊丹親興をはじめ畿内の諸将が義昭側についた。信長が義昭を討つために上洛。逢坂関(近江と山城国境)で信長を迎えたのは、荒木村重と細川藤孝の二人だけだった。いうまでもなく、これが大出世への途へ繋がった。
義昭追放後、畿内の諸将は没落し、村重は摂津の大部分の一職支配を認められた。天正2(1574)年11月、村重は伊丹親興を攻め滅ぼし、伊丹を有岡と改名して居城とした。
信長の命で秀吉に立場を奪われ…
翌天正3年7月に播磨の小寺政職の家老・黒田官兵衛孝高(当時は小寺姓)が信長の許を訪れ、播磨攻めの大将を遣わしてくれれば、小寺家がその先鋒となると申し入れた。そこで、天正4(1576)年9月、村重は信長の命により播磨に出兵して国人から人質を取りまとめるなど、播磨の国人領主とのパイプ役を任される(「豊臣兄弟!」では秀吉赴任後の話になっている)。
しかし、天正5(1577)年10月、信長は中国方面の責任者として羽柴秀吉を播磨に派遣。秀吉は黒田官兵衛の居城・播磨姫路城(兵庫県姫路市)に入った。それ以後、村重は秀吉の補佐的な立場を余儀なくされる。「それまで播磨を担当してきた村重の功績を無視するものであり、村重の小寺氏ら播磨国人にたいする与力関係を壊し、信長への取次としての面目を潰すものであった」(『荒木村重』)。
ついに信長に対し謀反を起こす
天正6(1578)年10月、安土城の信長の元に荒木村重が離反したとの報告が届いた。信長はその報告を信じず、松井友閑、側近の万見仙千代重元、および村重と婚姻関係のある明智光秀を派遣した。村重はいったん反意を否定したものの、安土城への出仕は拒否した。
結局、村重は信長から離反し、本願寺、毛利家、足利義昭と同盟を結んだ。村重の離反は摂津・播磨の国人領主にも波及し、かれらは次々と毛利家へ寝返った。同年11月、村重は有岡城に籠城。一方、信長は荒木家臣の高山右近、中川清秀を調略して高槻城、茨木城を開城させた。そして、大軍を率いて有岡城を囲んだが、籠城戦は膠着状態に陥った。
翌天正7年9月、村重はわずかの供を連れ、有岡城を脱出して支城の尼崎城に移った。尼崎城には毛利家からの援将・桂元将がおり、毛利家への援軍要請のために赴いたといわれている。ところが、村重なき後の有岡城は戦意を著しく喪失。これに目を付けた瀧川一益が荒木方の足軽大将らを調略して寝返らせ、城内に放火させた。有岡城は天守のみの裸城となり、落城必至の情勢となった。