出獄が決まりプロポーズしたが…

明治31年12月、木下は控訴審で無罪が確定して出獄する。出獄が近づいた日、木下は和に結婚を申し込んだ。原案小説では、和が「同じクリスチャン同士なら対等で思いやりにあふれた夫婦になれるかもしれない」と心を動かされながらも、看護の仕事を続けられるかという葛藤から即答できず、同期の鈴木雅(「風、薫る」大家直美のモチーフ)にも相談したがかんばしい反応は得られなかった、と描かれる。

一方、木下が後輩・相馬愛蔵に結婚の意思を打ち明けると、愛蔵は強く反対した。反対の理由は「和の方が十一歳年上だなど」の年齢差。しかし、原案本は、愛蔵が押しとどめたかった真の理由はそれだけではなかったとして、次のように描く。

廃娼演説会で木下が登壇した際、群衆から「お前は遊郭通いをしていたではないか」「女郎を身請けして同棲しているではないか」という野次が飛び、その内容が事実であると木下自身が認めたため、愛蔵は木下を信用できなくなっていた。雅が結婚に否定的だったのは、こうした女性遍歴を知っていたためだと描かれる。

廃娼論者なのに「身請け」の過去

実際に、木下は過去に諏訪の娼妓2人と深い仲になり、そのうちひとりを身請けして同棲した挙げ句に、彼女を捨てるようにして別れていた(藤田美実「木下尚江-その発想と回心について」明治大学教養論集刊行会)。

亀山美知子『大風のように生きて』(ドメス出版)は、相馬の反対を木下から知らされた和の心情をこう描く。「心の奥底に一抹の寂しさを感じたものの、十歳も自分が年上だということに対する世間並みの反対も仕方ないことのように思えたのだった。将来ある弁護士木下尚江を、遠くから見守ろうと決意したのである」。

1894年(明治27)、知命堂病院に産婆看護婦養成所が開設され、講師となった大関和(前列左端)
提供=医療法人知命堂病院
1894年(明治27)、知命堂病院に産婆看護婦養成所が開設され、講師となった大関和(前列左端)