新潟で廃娼運動を支援した和

愛蔵は東京専門学校在学中にキリスト教の洗礼を受け、明治23(1890)年の卒業後は札幌農学校で養蚕学を修めて郷里・安曇野へ戻り、蚕種製造業を営んでいた。同じキリスト者として、二人は高田城址を歩きながら信仰の歩みを語り合ったという。

大関和と親しかった実業家の相馬愛蔵
大関和と親しかった実業家の相馬愛蔵(1870~1954年)、1910年代(写真=新宿中村屋公式サイト/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

このとき高田では、キリスト教団体の青年たちを中心に廃娼運動が盛り上がっていた。和もこの運動に深く関わり、賛美歌や自作の「廃娼唱歌」を集会で自ら高田女学校のオルガンで弾き語って聴かせるなど、独自の関わり方で運動を支えていた(『Newsがわかる特別編 大関和がわかる』)。

その廃娼演説会の帰途、和は「公娼制度は人身売買制度」と力強く訴える、背の高い袴姿の男に出会う。それが木下尚江だった。

11歳下の木下尚江が会いに来た

木下は明治2(1869)年9月8日、信濃国松本城下の松本藩下級武士の家に生まれた。開智学校、松本中学を経て、明治19(1886)年に上京し東京専門学校(現・早稲田大学)へ。卒業後は郷里で新聞記者となり、この年は信州各地で禁酒・廃娼運動に取り組んでいた。出会った時の和は33歳、木下は22歳。木下は松本中学・東京専門学校で愛蔵の先輩でもあり、愛蔵から「今、信頼すべき婦人」と紹介され続けていた和に、ぜひ会いたいと考えて高田まで足を運んできたのだった(『別冊太陽 大関和 明治のナイチンゲールたち』平凡社)。

初対面の和に、木下は「同じ運動に関わる同志として文を交わしませんか」と申し出る。和がうなずいて茶屋を後にしたあと、木下はその背中をいつまでも目で追っていた、と同書は伝える。

ここから二人の文通が始まる。出会いから半年後の明治24年11月、和は瀬尾原始医師に請われて開院したばかりの知命堂病院初代看護婦長に就任。明治29(1896)年夏に高田を離れて東京へ戻り、東京看護婦会講習所の講師、後に同会会頭となる。文通は途切れなかった。