そして夫は爵位を得た
アレシーアは明治天皇の皇后(昭憲皇太后)に英語などを教えて信頼を得、皇居での「歌会始」に西洋人として初めて招待を受けた(エリザベス・グレイ・ヴァイニング『皇太子の窓』文芸春秋新社)。そして、義胤は明治29年(1896)に男爵の爵位を授けられた。
彼女は洋の東西をつなぐ社交界のキーパーソンとなり、日本が列強と対等に付き合えるようになるため急速に西洋化する必要があったこの時期に、日本のために尽くしてくれたのだ。
それは同時にイギリスのためでもあり、その貢献は本国にも伝わっていた。サトウがヴィクトリア女王の即位60周年式典のために一時帰国したとき、来日経験があるコノート公爵(女王の第3王子)夫人が「サミーと呼んでいる三宮夫人のことを話題にして、人の噂では彼女は下宿屋の管理人の娘だそうだと言われた」という。
三宮だからサミーとか、下宿屋の娘だとか、差別意識が見え見えだが、つまり平民のアレシーアが日本で貴族のように振る舞っていることが王族にはよく思われていなかったのだろう。それに対してサトウが「(アレシーアの自称)友人たちが(やっかみで)そう主張しているのでしょう」と返したのは、さすがだ(『アーネスト・サトウ公使日記』)。サトウにも日本人の内縁の妻と息子たちがいた。
そんなアレシーアと三宮男爵の外交努力が功を奏したのか、明治35年(1902)には日本にとってかなり大きいメリットのある「日英同盟」が結ばれた。これで日本は近代国家として国際的に認められたのだ。
サトウの日記などによると、アレシーアは東京でパーティーざんまいの日々を送るだけでなく、社会奉仕活動にも積極的で、岐阜の大地震(濃尾地震)で親を失った子どもたちのために「麻布孤児院」を作った。
夫に先立たれ、孤独な老後を送った
しかし、夫の義胤は明治38年(1905)に61歳で病没。
葬儀は築地本願寺で盛大に行われ、その後、遺体は汽車に乗せられて故郷の滋賀へ向かった。それを宮内省の職員が総出で見送ったという。その間、アレシーアは気丈に振る舞っていたというが、義胤との間に実子はなく、夫なしでは社交の場にも出にくく、しだいに孤独になっていった(『国際結婚第一号』)。
実は義胤は、当時の財力ある男性にありがちだが、他の女性に息子を産ませていて、不倫スキャンダルをゴシップ新聞に書かれたこともあったらしい。
小泉八雲のように、八重野という日本名に変えてまで日本人になろうとしたアレシーア。当時としては長生きで、夫の死後も73歳まで生きた。「風、薫る」を見ているだけでは分からないが、パーティー好きの“華族の奥様”には国の命運を左右するような重責が担わされていたのである。
1995年、出版社に入社し、アイドル誌の編集部などで働く。フリーランスになってからも別名で芸能人のインタビューを多数手がけ、アイドル・俳優の写真集なども担当している。「リアルサウンド映画部」などに寄稿。