「風、薫る」(NHK)に入院患者として登場した仲間由紀恵演じる千佳子。そのモチーフについて調べたライターの村瀬まりもさんは「作中ではワガママなセレブ妻として描かれているが、史実を読み解くとその印象はがらりと変わる。モデルと目される実在の女性は、生涯をかけて日本に尽くし続けた」という――。

枕を床にたたきつけ、看護師に当たり散らす

【看護婦見習い・りん(見上愛)】「私、奥様のおつらい気持ちはよく分かります」
【侯爵夫人・千佳子(仲間由紀恵)】「(枕を床にたたきつけ)気持ちが分かるなんて、たやすく言わないでちょうだい。(中略)思い上がらないで」

(「風、薫る」第8週「夕映え」より)

今から約140年前、明治時代に日本で初期の看護婦となった女性たちの奮闘を描く「風、薫る」(NHK)。看護婦学校の生徒として病院で実習に励む、りん(見上愛)が看護を担当することになったのは、“華族の奥様”こと侯爵夫人の千佳子(仲間由紀恵)だ。千佳子は乳がん手術を受けるため入院してきたのだが、とにかくプライドが高く、一日中不機嫌で、りんに体温すら測らせてくれない。

VIP待遇を受けているのに、医師や看護婦に向かって「病室の眺めが気に入らない」「他の人に代わって」「出ていってちょうだい!」とヒステリックに叫ぶなど、夫人というよりはわがままな令嬢のようだ。りんとの関係も患者と看護婦というよりは、まるで朝ドラの定番、嫁いびりをする姑……。しかし、こういう場合、朝ドラウォッチャーとしては慌てず騒がず、ツンツンの彼女が「いつデレるのかな~、金曜までもつかな」と楽しみに待つのが作法というものだ(今回は早くも木曜でデレたが)。

大関和が看護した“夫人”の正体

この侯爵夫人にはモチーフとなりえる実在の人物がいた。りんのモチーフ・大関おおぜきちかが東京帝国大学の附属病院で看護婦見習いをしていたとき、乳がん手術のため入院し、和から看病された、三宮さんのみや八重野やえの(1846~1919年)。明治時代に外交官・宮内省官僚として活躍した三宮義胤よしたね男爵(1844~1905年)の妻である。

大関和(左:提供=医療法人知命堂病院)、三宮八重野(右:『アーネスト・サトウ公使日記2』/国立国会図書館デジタルコレクション/三宮糸子氏蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons
三宮善胤
三宮善胤(写真=『Fourteen years of diplomatic life in Japan』/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

なるほど、八重野がモチーフだから、仲間由紀恵の役名は同じ3文字ネームの千佳子なのか、侯爵と男爵では華族といってもランクがだいぶ違うけれど、大関和がそういうセレブの看護をしたのは本当なのね……とざっくり理解しただけでは、明治時代のリアルには近づけない。そもそもこのときの三宮はまだ男爵ではない。村上信彦『近代史のおんな』(大和書房)には、明治20年(1887)の話として、こうある。

大関はまだこの病院実習中に、乳癌の手術で帝大病院に入院した三宮義胤よしたね式部官夫人八重野(英人)の附添つきそいに選ばれて十日間つとめ、退院後は高輪の御殿へ四日ごとにスクリバ教授について包帯交換などに通った。六人の同期生はいずれも優れた生徒達であったにそうい(相違)ないが、その中でも彼女に白羽の矢が立ったというのは、いかに優秀であったかをものがたっている。

村上信彦『近代史のおんな』(大和書房)

知ると腑に落ちる登場人物の“国籍”

英人? つまり三宮夫人はイギリス人だったというのだ。まず、この記述にあるドイツ人医師にして帝大で医術を教えていたスクリバ教授(1848~1905年)が、「風、薫る」には出てこず、日本人のシュッとした若手医師がサクッと乳がん手術をできることになっているが……。この頃、日本人にその技術はあったのか?

「風、薫る」のモチーフ大関和と同じ帝大病院の外科医だったユリウス・スクリバ教授
「風、薫る」のモチーフ大関和と同じ帝大病院の外科医だったユリウス・スクリバ教授(写真=Surg Today. 36, 5, 395-402. 2006/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

ただ、江戸時代の有名な医師、華岡青洲が日本で初めて乳がん手術を行って(1804年)から80年以上経っているので、この頃には日本でも手術例は少なくなかったのかもしれない。三宮男爵夫人も結果的に手術後30年ほど、生きながらえている。

しかし、患者がイギリス人女性で、執刀医もドイツ人医師で……と知ると、やはりそちらの方がリアルに感じられる。おそらく三宮夫人は西洋医学のことをよく理解していて、ドラマの侯爵夫人のように手術を怖がったり、看護婦に当たり散らしたりしたということは、なかったのでは?

日本で5例目の「国際結婚」

三宮八重野とはどんな女性だったのか。彼女の本名はアレシーア・レイノア(Alethea Raynor)。イギリスではレディの称号を持つ貴族ではなく、商人の娘だった。

東部の都市キングストン・アポン・ハルの生地商を父に持ち、どういう経緯があったのかは分からないが、東伏見宮彰仁親王(のちの小松宮)の英国留学に随行していた三宮義胤と知り合って、おそらく運命的な恋に落ちた。

明治7年(1874)にロンドン・ハムステッドの教会で岩倉具視の三男・岩倉具経らを立会人に、義胤と結婚式を挙げている。

これが日本の記録に残る「国際結婚」の5例目とされる。ちなみに前の朝ドラ「ばけばけ」のモデル、ラフカディオ・ハーンと小泉セツの結婚は191例目(小山騰『国際結婚第一号』講談社)。

そして、外務省官僚となった夫と共にドイツ駐在を経て、明治13年(1880)に日本に来た。もともと、義胤は華族でも、旧大名や公家の家系でもなく、滋賀の寺の住職の長男だった。言ってしまえば、維新の戦乱で武功を挙げ新政府に取り立てられただけの庶民。だから、アレシーアが爵位や財産目当てで日本人男性と結婚したというわけではなさそうだ。

しかし3年後、義胤は宮内省に転じると、めきめき出世しだした。明治18年(1885)には式部官に就任。現在でも宮内庁式部職といえば、儀式、外国交際、雅楽に関する事務をつかさどる役割で、皇居にも足繁く出入りする。イギリスとドイツに駐在経験があり、妻は生粋のイギリス人という義胤にとって、この役割にはうってつけ。その頃、欧米各国から多数来日していた要人のアテンドをしまくっていた。

英駐日公使の日記から見える活躍ぶり

その多忙ぶりと活躍ぶりが分かるのが、『アーネスト・サトウ公使日記』(新人物往来社)だ。アーネスト・サトウ(1843~1929年、サトウはスラブ系の苗字)は幕末にイギリスの駐日公使についていた通訳官で、足かけ20年余り日本に滞在して薩英戦争に関わり、明治新政府の成立や西南戦争の収束を見届けてから、いったんイギリスに帰国。12年後の明治28年(1895)に駐日特命全権公使に出世して日本に戻ってきた。

アーネスト・サトウ(イギリスの駐日大使)
アーネスト・サトウ(イギリスの駐日大使)(写真=Ernest Mason Satow/A Diplomat in Japan/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

サトウと三宮義胤にそれまでの交流があったかは不明だが、サトウがイギリス大使として再来日してからの親密ぶりはすごい。その日記を読むと、仕事絡みとはいえ、ほとんど毎週、ときには週に何回も、サトウと義胤は顔を合せている。

着任1カ月後、サトウが皇居で明治天皇に拝謁したのは義胤の手配によるものであり、天皇から手を差し伸べられ「長い年月を経て、またお会いできたことを喜ばしく思います」という言葉を賜ったという(『アーネスト・サトウ公使日記』)。そのように外国の要人が皇居に上がるときは、式部長になった義胤に日時をセッティングしてもらう必要があった。

そんなポジションだから、義胤は夫人と共に毎週のように西郷従道や大隈重信、そして「風、薫る」にも出てくる大山巌・捨松夫妻などの要人や各国大使の集う晩餐会に出席。自分たちの邸宅(大関和が通ったという高輪北町の家、現在の高輪ゲートウェイ駅のあたりか)でもパーティーを開いていた。

「とても魅力的で才気豊かな婦人」

やはり妻のアレシーアがイギリス人ということも大きかったようだ。この時点でアレシーアは乳がん手術から8年ほどを経ており、50歳前。幸い再発はなかったのか、元気に社交活動を行い、日本と欧米各国をつなぐ役割を果たしていた。『アーネスト・サトウ公使日記』に収録された写真を見ると、体型もふっくらして貫禄がある。

ベルギー大使のダヌタン夫人は「三宮夫人は極めて愛想のよい態度。とても魅力的で才気豊かな婦人である。三宮邸は東京で最も客扱いのうまいお宅」(『ベルギー公使夫人の明治日記』中央公論社)と日記に書いている。また、当時、駐日していたイギリス陸軍軍人はこう書く。

冒し難い威厳をそなえた三宮男爵夫人である。彼女は(中略)長い間、妃殿下方や宮廷の貴夫人たちをはじめ、日本の婦人は、はじめて外交団の社交界に出るときは、外国の服装や社交上の習慣について、彼女の助言を求めたものだった。彼女は毎週きまってアト・ホーム・デーをしたが、そのときはいつも大勢の客が来た。彼女の特殊な地位は、明治の初期、イギリスのもっていた影響力の変わった方面への反響だった。

(フランシス・ピゴット『断たれたきずな』時事通信社)

そして夫は爵位を得た

アレシーアは明治天皇の皇后(昭憲皇太后)に英語などを教えて信頼を得、皇居での「歌会始うたかいはじめ」に西洋人として初めて招待を受けた(エリザベス・グレイ・ヴァイニング『皇太子の窓』文芸春秋新社)。そして、義胤は明治29年(1896)に男爵の爵位を授けられた。

彼女は洋の東西をつなぐ社交界のキーパーソンとなり、日本が列強と対等に付き合えるようになるため急速に西洋化する必要があったこの時期に、日本のために尽くしてくれたのだ。

明治天皇の皇后(昭憲皇太后)
明治天皇の皇后(昭憲皇太后)(写真=米国立アジア美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

それは同時にイギリスのためでもあり、その貢献は本国にも伝わっていた。サトウがヴィクトリア女王の即位60周年式典のために一時帰国したとき、来日経験があるコノート公爵(女王の第3王子)夫人が「サミーと呼んでいる三宮夫人のことを話題にして、人の噂では彼女は下宿屋の管理人の娘だそうだと言われた」という。

三宮だからサミーとか、下宿屋の娘だとか、差別意識が見え見えだが、つまり平民のアレシーアが日本で貴族のように振る舞っていることが王族にはよく思われていなかったのだろう。それに対してサトウが「(アレシーアの自称)友人たちが(やっかみで)そう主張しているのでしょう」と返したのは、さすがだ(『アーネスト・サトウ公使日記』)。サトウにも日本人の内縁の妻と息子たちがいた。

そんなアレシーアと三宮男爵の外交努力が功を奏したのか、明治35年(1902)には日本にとってかなり大きいメリットのある「日英同盟」が結ばれた。これで日本は近代国家として国際的に認められたのだ。

サトウの日記などによると、アレシーアは東京でパーティーざんまいの日々を送るだけでなく、社会奉仕活動にも積極的で、岐阜の大地震(濃尾地震)で親を失った子どもたちのために「麻布孤児院」を作った。

夫に先立たれ、孤独な老後を送った

しかし、夫の義胤は明治38年(1905)に61歳で病没。

葬儀は築地本願寺で盛大に行われ、その後、遺体は汽車に乗せられて故郷の滋賀へ向かった。それを宮内省の職員が総出で見送ったという。その間、アレシーアは気丈に振る舞っていたというが、義胤との間に実子はなく、夫なしでは社交の場にも出にくく、しだいに孤独になっていった(『国際結婚第一号』)。

三宮義胤の葬儀の様子
三宮義胤の葬儀の様子(写真=『Fourteen years of diplomatic life in Japan』/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

実は義胤は、当時の財力ある男性にありがちだが、他の女性に息子を産ませていて、不倫スキャンダルをゴシップ新聞に書かれたこともあったらしい。

小泉八雲のように、八重野という日本名に変えてまで日本人になろうとしたアレシーア。当時としては長生きで、夫の死後も73歳まで生きた。「風、薫る」を見ているだけでは分からないが、パーティー好きの“華族の奥様”には国の命運を左右するような重責が担わされていたのである。