看護婦の労働条件にこだわり…
また、私が驚いたのが、雅が最初に慈善看護婦会を立ち上げた時に定めた労働条件の先見性です。全く前例がないのに、「家政婦のような仕事はさせないでください」「何時間働いたら何時間休憩させる」といった規則を具体的に整えていた。
後に派出看護婦として実際に働いた女性たちの記録を見ると、「私は看護婦として行ったのに雑用ばかりやらされた」「休憩できなくてつらい」といった感じの不満が書かれているんです。雅はそういった問題が表面化するはるか前から、すでに起こりうる問題点を見越して制度を作っていた。もしかしたら外国の例を勉強していて予備知識があったのかもしれないですが、一件目であるにもかかわらず、そこまで制度を整えているのは、本当にすごいことだと思います。
43歳でリタイア、京都へ移住
雅が1901年(明治34年)に会頭職を和に譲り、第一線から退いたのは43歳のことです。長らく「息子・良一の病気のため」というのが定説でしたが、宮田茂子さんの本に、「看護婦規則の翌年だから、それが関係あるのではないか」という指摘があって、読んだ時に「それはありうる」と私も思いました。
1900年(明治33年)に東京府で看護婦規則が制定されたのですが、それを作ったのは和の働きかけによるところが大きかった。もしその制定によって雅が引退したのだとしたら、やっぱりそこは書かなければいけないと思いました。雅も規則は必要だと考えていたと思いますが、これは違うという感覚があったのでしょう。