欧米帰りの夫婦は対等な立場に

ドラマでも描かれるように、捨松は人前で夫を「イワオ」と呼び捨てにし、前妻の娘・留子は捨松を「ママちゃん」と呼んで慕っていた(久野明子著、前掲書)。巌は妾を持たず、仕事が終わると家族のもとへ直帰した。「女に学問はいらない」とは決して言わない男と、「女は男の三歩後を歩け」とは決して言わない女……二人が深い理解で結ばれていたのは、同じ時代のはぐれ者同士だったからかもしれない。

しかし、捨松の真骨頂は舞台の裏にあった。有志共立東京病院(現・東京慈恵会医科大学附属病院)を訪問した捨松は、看護師の姿がなく雑用係の男たちが病人の世話をしている光景に衝撃を受け、院長・高木兼寛に看護婦養成学校の必要性を説いた。「財政難で予算が下りない」と答えた高木に、捨松はニューヘイブンで経験したチャリティバザーの発想を持ち込む。

明治17年(1884年)6月、鹿鳴館で日本初のチャリティバザーを3日間開催。約1万2000人が入場し、収益8000円(当時の米価に換算して約5300万円)の全額を病院へ寄付した。2年後の明治19年(1886年)、日本初の看護婦学校・有志共立病院看護婦教育所(現・慈恵看護専門学校)が設立される礎となった。なお史実では、捨松と「風、薫る」の一ノ瀬りん(見上愛)のモチーフである大関和の直接交流を裏付ける記録はなく、ドラマはフィクションとして二人の交流を描いている。

鹿鳴館時代、イブニングドレス姿の大山捨松伯爵夫人
鹿鳴館時代、イブニングドレス姿の大山捨松伯爵夫人(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

徳冨蘆花が「意地悪な継母」に描く

一方で理不尽な受難も待ち構えていた。大山巌と先妻の長女・信子は結核のため20歳で早世したが、彼女をモデルに徳冨蘆花が書いたベストセラー小説『不如帰ほととぎす』(明治31〜32年、国民新聞連載)で、捨松は「意地悪な継母」として描かれた。

左=小説家・徳富蘆花の肖像写真、右=徳冨蘆花『不如帰』初版表紙、1899年
左=小説家・徳冨蘆花の肖像写真(写真=水俣市のサイト/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)、右=徳冨蘆花『不如帰』初版表紙、1899年(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

信子が隔離されたのは、実際には感染症の知識に基づく近代的な隔離・消毒の指示だったのだが……。さらに信子の看護中に吸入器が爆発するという事故が起き、捨松は早産となってしまい第三子を失っている(久野明子著、前掲書)。

「この『不如帰』騒動で捨松はそのことをいやというほど思い知らされ、晩年になるまで心に深い傷として残った」(久野明子著、前掲書)。蘆花が謝罪したのは小説発表から19年後、捨松の危篤に際してのことだった。