「風、薫る」(NHK)で多部未華子が演じる大山捨松は実在の人物。朝ドラに詳しいライターの田幸和歌子さんは「捨松はわずか11歳でアメリカに留学。帰国したときは22歳だったが、その年齢で売れ残りと言われ、大山巌の後妻になった」という――。
大山捨松公爵夫人、1919年以前
大山捨松公爵夫人、1919年以前(写真=アメリカ・ヴァッサー大学サイトより/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

セレブ感で話題、「風、薫る」の捨松

NHK連続テレビ小説「風、薫る」(脚本・吉澤智子、原案・田中ひかる『明治のナイチンゲール 大関和物語』)に、多部未華子が演じる大山捨松おおやますてまつ(旧姓・山川)が登場し、実在した伯爵夫人(のちに公爵夫人)ということもあって、注目を集めている。

主人公・一ノ瀬りん(見上愛)と大家直美(上坂樹里)の人生に大きな影響を及ぼす存在であり、明治時代、まだ珍しかった洋装のドレスをまとって「鹿鳴館ろくめいかんの華」となった捨松だが、その実像はドラマが描く以上に数奇だ。

安政7年(1860年)3月16日、会津若松に生まれた捨松は、日本初の女子留学生の一人であり、大学を卒業して学士号を得た最初の日本人女性でもある。華やかな称号の陰に、8歳の砲弾体験から始まる激烈な半生が隠れている。

会津で籠城、未来の夫から砲撃

捨松の幼名は「さき」、のちに「咲子さきこ」。父は生まれる1カ月ほど前に病死しており、母・えんと祖父・兵衛重英、15歳年長の長兄・浩(大蔵)が父親代わりとなって咲子を育てた。えんは「唐衣」の雅号を持つ会津藩屈指の歌人で、子供たちに軍記物を読み聞かせ、懐剣もすぐ抜けるよう袋を短めにするほど厳格だった。「ならぬことはなりませぬ」という会津の教えを骨の髄まで叩き込まれた末娘に、慶応4年(1868年)8月、8歳のとき、戦禍が降りかかる。

戊辰戦争最後の激戦地となった会津若松城の籠城戦。ある日、食事中に砲弾が炸裂し、長兄・浩の妻トセが大やけどを負い、咲子自身も首に傷を負った。「母上、母上、どうぞ私を殺してくださいませ。あなたの勇気はどこにいってしまったのですか」と懇願するほど苦しんだトセは、まもなく息を引き取った。このとき会津城下に砲弾を撃ち込んでいた新政府軍の砲兵隊の指揮官の一人が、後の夫・大山巌(当時は大山弥助)である。

捨松が籠城した若松城(会津戦争後)
捨松が籠城した若松城(会津戦争後)。1868年撮影(写真=『会津戊辰戦史』/国立国会図書館デジタルコレクション/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

後年、明治37年(1904年)にアメリカの雑誌『トゥエンティース・センチュリー・ホーム』に掲載された捨松自身の手記にはこうある。

「不思議なことに、将来私の夫となる人が敵軍の中にいて、この夜間の襲撃の際負傷したのです。私が注意深く積み上げていた大砲の弾を打った敵軍の一人と結婚することになろうとは夢にも思いませんでした」

砲弾を拾い集めた少女と、その砲弾を撃った男が、やがて夫婦になる。歴史はときに、小説よりも奇妙な筋書きを用意する。

咲子から捨松に改名したワケ

会津藩の降伏後、旧藩士とその家族は極寒の斗南(現・青森県下北半島)への移住を余儀なくされた。末娘の咲子は函館へ送り出され、坂本龍馬の従兄弟・沢辺琢磨の縁でフランス人家庭に預けられる。わずか半年だったが「西洋」との最初の接触が、その後の人生を決定的に変えることになる。

明治4年(1871年)12月23日、岩倉具視率いる使節団が横浜港を出発した際、約60名の留学生のうち女子は5人いた。出発時、母・えんは娘に懐剣を手渡しながらこう言った。「今生では二度と会えるとは思っていないが、捨てたつもりでお前の帰りを待って(松)いる」。こうして「咲子」は「捨松」と改名され、11歳で太平洋の彼方へと旅立った。なお捨松が船出した翌日、大山弥助改め大山巌もヨーロッパに向けて横浜港を発っている。後に夫妻となる二人が、同じ日に別々の海を越えていたのだ。

明治政府の支援を受けて米国に留学した、初の日本人女子学生たち。左から、永井繁子、上田悌子、吉益亮子、津田梅子、山川捨松。1871年
明治政府の支援を受けて米国に留学した、初の日本人女子学生たち。左から、永井繁子、上田悌子、吉益亮子、津田梅子、山川捨松。1871年(写真=「ネコ肉球4個分の幸せ」/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

11歳でアメリカ留学、才能を発揮

コネチカット州ニューヘイブンのリオナード・ベーコン牧師宅に寄宿した捨松は、4年近く娘同然に過ごしながら英語を習得した。牧師のベーコンは娘への手紙に「私たちは皆すっかり彼女の虜になってしまいました」と書き送った(久野明子著『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松』中央公論社)。末娘のアリス・ベーコンとは生涯の親友となる。

ヴァッサー大学在学中の捨松
ヴァッサー大学在学中の捨松(写真=PD US/Wikimedia Commons

ヒルハウス高校を経て進学した名門女子大ヴァッサー・カレッジ(ニューヨーク州)では、明治15年(1882年)6月14日、学年3番の通年成績で「偉大なる名誉」(magna cum laude)の称号を得て卒業し、日本人女性として初めて学士号を取得した。卒業生総代として行った英語講演はニューヨーク・タイムズにも論評された。さらにコネチカットの看護婦養成学校で2カ月間看護を学び、免許を取得して同年11月に帰国した。その時点でもまだ22歳だった。

しかし、日本は捨松を待っていなかった。留学の目的だった開拓使はその年に廃止されており、捨松の日本語はたどたどしい会津なまりだけになっていた。奉職の打診があっても言葉の問題から辞退せざるを得ず、私塾設立も兄の反対で頓挫した。アリスへの手紙には「20歳を過ぎたばかりなのにもう売れ残りですって。想像できる? 母はこれでもう縁談も来ないでしょうなんて言っているの」と書き送っている(久野明子著、前掲書)。

そこへ現れたのが、妻を病気で亡くしたばかりの42歳・大山巌(陸軍中将)だった。

ヴァッサー大学1882年度卒業写真。4列目の左から5番目が捨松
ヴァッサー大学1882年度卒業写真。4列目の左から5番目が捨松(写真=PD US/Wikimedia Commons

仇敵で20歳上の大山巌と結婚

兄・浩の妻トセを砲撃で失わせた相手の求婚を、山川家が許すはずもない。即刻、拒絶した。

「会津の宿敵ともいえる薩摩の軍人からの申し出をどうして承諾出来ようか。薩摩の裏切り、長州の背信によって朝敵の汚名を着せられた上に、あの『地獄への道』とまでいわれた斗南での歳月を思うと、十年や二十年でその怨みが消えるはずがない」(久野明子著、前掲書)。

しかし、大山は諦めなかった。西郷隆盛の実弟・西郷従道を立てて連日山川家に通わせ、根負けした浩はついに「本人次第」と決断を妹に委ねた。

大山巌の肖像写真、1916年以前
大山巌の肖像写真、1916年以前(写真=『歴代首相等写真』/国会図書館デジタルアーカイブ/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

捨松は「閣下のお人柄を知らないうちはお返事もできません」と二人きりのデートを提案した(久野明子著、前掲書)。会ってみると薩摩弁と会津訛りでまったく通じない。大山がフランス語で話しかけると、とたんに会話がはずんだ。

4月5日付のアリスへの手紙には、まだ迷いがにじむ言葉が綴られていた。

「現在のところ、私が就職できるような仕事はまったくありません。今一番やらなければならないのは、社会の現状を変えることなのです。日本では、それは結婚した女性だけが出来ることなのです」
「でもアリス、私はお国のために結婚するのではなりません。私はこの結婚を日本のためばかりでなく、自分自身のためにも真剣に考えています」(久野明子著、前掲書)。

デートを重ね、大山に心を許す

ところがデートを重ねるうちに、捨松の心境は変わっていった。わずか3カ月後、7月2日付の手紙には、もう迷いはなかった。

「私は今、未来に希望が持てるようになりました。自分が誰かの幸せと安心のために必要とされていると感じることは、ともすれば憂鬱になる気持ちを癒してくれるなによりの薬となりますし、私に勇気を与えてくれます。……ある人の幸福がすべて私の手にゆだねられている、そしてその方の子供達の幸福までが私の手の中にあると感じられる、そんな男性に私は出会ったのです」(久野明子著、前掲書)。

ロマンスではなく、戦略的な決断だった。しかしその決断が、日本の看護史と女子教育の歴史を動かすことになる。

明治16年(1883年)11月8日に婚儀が行われ、翌12月12日、鹿鳴館で盛大な結婚披露宴が催された。外交官たちが陰で日本人の「猿まね」を嘲笑するなか、唯一の例外が捨松だった。英語・フランス語・ドイツ語を自在に操り、渡米後にアメリカで身につけた社交ダンスを踊りながら各国外交官と堂々と渡り合う――「鹿鳴館の貴婦人」「鹿鳴館の華」の称号は、外国人の側が自然と口にしはじめたものだった。

欧米帰りの夫婦は対等な立場に

ドラマでも描かれるように、捨松は人前で夫を「イワオ」と呼び捨てにし、前妻の娘・留子は捨松を「ママちゃん」と呼んで慕っていた(久野明子著、前掲書)。巌は妾を持たず、仕事が終わると家族のもとへ直帰した。「女に学問はいらない」とは決して言わない男と、「女は男の三歩後を歩け」とは決して言わない女……二人が深い理解で結ばれていたのは、同じ時代のはぐれ者同士だったからかもしれない。

しかし、捨松の真骨頂は舞台の裏にあった。有志共立東京病院(現・東京慈恵会医科大学附属病院)を訪問した捨松は、看護師の姿がなく雑用係の男たちが病人の世話をしている光景に衝撃を受け、院長・高木兼寛に看護婦養成学校の必要性を説いた。「財政難で予算が下りない」と答えた高木に、捨松はニューヘイブンで経験したチャリティバザーの発想を持ち込む。

明治17年(1884年)6月、鹿鳴館で日本初のチャリティバザーを3日間開催。約1万2000人が入場し、収益8000円(当時の米価に換算して約5300万円)の全額を病院へ寄付した。2年後の明治19年(1886年)、日本初の看護婦学校・有志共立病院看護婦教育所(現・慈恵看護専門学校)が設立される礎となった。なお史実では、捨松と「風、薫る」の一ノ瀬りん(見上愛)のモチーフである大関和の直接交流を裏付ける記録はなく、ドラマはフィクションとして二人の交流を描いている。

鹿鳴館時代、イブニングドレス姿の大山捨松伯爵夫人
鹿鳴館時代、イブニングドレス姿の大山捨松伯爵夫人(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

徳冨蘆花が「意地悪な継母」に描く

一方で理不尽な受難も待ち構えていた。大山巌と先妻の長女・信子は結核のため20歳で早世したが、彼女をモデルに徳冨蘆花が書いたベストセラー小説『不如帰ほととぎす』(明治31〜32年、国民新聞連載)で、捨松は「意地悪な継母」として描かれた。

左=小説家・徳富蘆花の肖像写真、右=徳冨蘆花『不如帰』初版表紙、1899年
左=小説家・徳冨蘆花の肖像写真(写真=水俣市のサイト/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)、右=徳冨蘆花『不如帰』初版表紙、1899年(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

信子が隔離されたのは、実際には感染症の知識に基づく近代的な隔離・消毒の指示だったのだが……。さらに信子の看護中に吸入器が爆発するという事故が起き、捨松は早産となってしまい第三子を失っている(久野明子著、前掲書)。

「この『不如帰』騒動で捨松はそのことをいやというほど思い知らされ、晩年になるまで心に深い傷として残った」(久野明子著、前掲書)。蘆花が謝罪したのは小説発表から19年後、捨松の危篤に際してのことだった。

スペイン風邪で58歳にして死去

明治33年(1900年)、津田梅子が女子英学塾(現・津田塾大学)を設立すると、捨松は顧問に就いて全面支援した。留学の帰路の船上で津田らと「学校を作ろう」と語り合ってから18年、ようやく夢が形になった。

大正5年(1916年)12月10日、夫・巌が満75歳で世を去った。大正8年(1919年)、病に倒れた津田梅子に代わって女子英学塾の運営を取り仕切り、後任探しに奔走した捨松は、風邪気味の体を押して後任のもとへ赴いたことがたたり、スペイン風邪(インフルエンザ)にかかってしまう。新塾長の就任を見届けた翌日に倒れ、同年2月18日、満58歳でその生涯を閉じた。

砲弾の降る城で育ち、太平洋を渡り、鹿鳴館で踊り、最後は人のために外へ出て死んだ。「捨てたつもりで待っている」という名を与えた母の覚悟は、娘の58年の生涯全体を貫いていた。「捨松の生涯を振り返ってみると、その一生は本人の意志ではどうすることも出来ない、目に見えない大きな力によって動かされていたように思えてならない。その力とは、明治という時代の流れである」――久野明子はそう記している。

砲弾を拾い集めた少女は、その砲弾を撃った男と結ばれ、時代の流れに抗いながら、時代の流れとともに生きた。

晩年の大山巌・捨松夫妻、1916年以前
晩年の大山巌・捨松夫妻、1916年以前(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons