仇敵で20歳上の大山巌と結婚
兄・浩の妻トセを砲撃で失わせた相手の求婚を、山川家が許すはずもない。即刻、拒絶した。
「会津の宿敵ともいえる薩摩の軍人からの申し出をどうして承諾出来ようか。薩摩の裏切り、長州の背信によって朝敵の汚名を着せられた上に、あの『地獄への道』とまでいわれた斗南での歳月を思うと、十年や二十年でその怨みが消えるはずがない」(久野明子著、前掲書)。
しかし、大山は諦めなかった。西郷隆盛の実弟・西郷従道を立てて連日山川家に通わせ、根負けした浩はついに「本人次第」と決断を妹に委ねた。
捨松は「閣下のお人柄を知らないうちはお返事もできません」と二人きりのデートを提案した(久野明子著、前掲書)。会ってみると薩摩弁と会津訛りでまったく通じない。大山がフランス語で話しかけると、とたんに会話がはずんだ。
4月5日付のアリスへの手紙には、まだ迷いがにじむ言葉が綴られていた。
「現在のところ、私が就職できるような仕事はまったくありません。今一番やらなければならないのは、社会の現状を変えることなのです。日本では、それは結婚した女性だけが出来ることなのです」
「でもアリス、私はお国のために結婚するのではなりません。私はこの結婚を日本のためばかりでなく、自分自身のためにも真剣に考えています」(久野明子著、前掲書)。
デートを重ね、大山に心を許す
ところがデートを重ねるうちに、捨松の心境は変わっていった。わずか3カ月後、7月2日付の手紙には、もう迷いはなかった。
「私は今、未来に希望が持てるようになりました。自分が誰かの幸せと安心のために必要とされていると感じることは、ともすれば憂鬱になる気持ちを癒してくれるなによりの薬となりますし、私に勇気を与えてくれます。……ある人の幸福がすべて私の手にゆだねられている、そしてその方の子供達の幸福までが私の手の中にあると感じられる、そんな男性に私は出会ったのです」(久野明子著、前掲書)。
ロマンスではなく、戦略的な決断だった。しかしその決断が、日本の看護史と女子教育の歴史を動かすことになる。
明治16年(1883年)11月8日に婚儀が行われ、翌12月12日、鹿鳴館で盛大な結婚披露宴が催された。外交官たちが陰で日本人の「猿まね」を嘲笑するなか、唯一の例外が捨松だった。英語・フランス語・ドイツ語を自在に操り、渡米後にアメリカで身につけた社交ダンスを踊りながら各国外交官と堂々と渡り合う――「鹿鳴館の貴婦人」「鹿鳴館の華」の称号は、外国人の側が自然と口にしはじめたものだった。