注目され、美青年たちと情事を重ねる

この頃の玲子は少し増長していた。大政小政おおまさこまさと称する女性の子分を従え、美青年と見るやすぐに一夜を共にした。まさに世間に復讐するかのごとくやりたいようにやった。

しかし、いいことばかりではなかった。

父は家族の恥を世間にさらしたと激怒し、人権擁護局に娘を訴えた。妹の敏子も娼婦と書かれて「たたっ殺してやる」と出刃包丁を持ち出したため、玲子は「本当のことを書いて何が悪い」と応酬した。18年勤めた売店からは、ここで働かなくても食べていけるではないかと「イビリ出」され(と玲子は言うが、ファンが売店に殺到したという話もある)、玲子が入れないときに店番をしていた母も辞めざるを得なくなった。

『わが妹・娼婦鳥子』カバー写真の堤玲子
写真提供=三一書房
『わが妹・娼婦鳥子』カバー写真の堤玲子

浮気を公認していた夫が失踪

1968(昭和43)年11月1日、夫の渋谷正が失踪した。夫の勤務先からの知らせを東京で受けた玲子は絶句した。男と関係しなければものを書けないと公言し、なかば夫公認で美少年を「つまみ食い」することも多々あった玲子。「総合芸術」の月に一度の会合に毎回違う男性を連れてきて同人たちを呆れさせたこともあった。「自分は情事の限りを尽くしてもね、相手には浮気を認めないですね。“早漏的思想”いうんですね。自分だけよければいいね、大変エゴイズムですね」などと調子に乗って記者に語っていた。

そんな勝手な玲子を理解し、文学的成長のためと見守ってきた夫に一体何があったのか。真相は、職場で知り合った女性との駆け落ちだった。相手にも家族はあったが、子どもを置いて二人で北海道へ出奔したらしい。会社もクビになっていた。なんとか仕事を片付けて11日後に岡山に駆けつけた玲子は、数社の週刊誌に声をかけてこのニュースを売り込み、「亭主よ、出てきてくれ、戻ってもええ、戻らんでもええ……」と訴えた。15年も連れ添った夫の裏切りはあまりにも大きな打撃だった。しばらく新宿で泥酔したりしていたが、地元に帰って2年ほど沈黙していた。

1970(昭和45)年ごろに岡山で喫茶店「ノスタルジー」を開店。店番をしながら3作目を執筆しつつ、毎日来る客のドラマを観察していたが、常連ばかりになってつまらなくなり閉めた。このとき書いていた小説は、終戦直後が舞台の「火の玉みたいに燃えて死んでいったヤクザの話」で、モデルは3人くらいいるとのこと。渋谷とは「ボーイフレンド程度」に連絡をとり、その他3、4人は寝ないボーイフレンドがいたが、筆が進まず四苦八苦していた。