チカは娘を産み、離婚を決意
明治13年(1880)には長女・心を無事に出産。コレラ騒ぎはまだ収束しない時期だったが、これでひとまずは安心。産後の体力が回復すると、チカはさっそく行動を起こした。福之進に離婚を申し入れたのである。
明治6年(1873)に裁判離婚制度が導入されて、妻の離婚請求権が法的に認められていた。夫が離婚に応じなければ、妻は裁判所に提訴することができる。裁判になったりすると離婚するよりもっと世間体が悪いのだが、しかし、チカならそれもやりかねない。この頃になると福之進もやっと、自分の妻の気性がわかってきたようである。
離婚成立も、長男の親権は夫に
ここは自分が引き下がるしかないと、彼は離婚に応じることにした。しかし、六郎の親権を手放す気はなかった。明治時代の民法では「子は其家に在る父の親権に服す」と定められ、母親が親権者となることは原則的には認められない。離婚した母親が子どもの親権を持つことは難しい。
六郎は大切な嫡男だけに、福之進は自分の手で育てたいと思っていた。親権者の権利を主張すれば取り上げることは可能なのだが、まだ3歳の幼児を無理やりに母親から引き離すというのも忍びなかったのだろうか。彼は権利の行使を控えて、離婚後も六郎はチカのもとで育てられることになる。こうして考えると、この元夫は意外と話のわかるいいヤツなのではないか、そんなふうにも思えてくる。
彼の妾のなかには戊辰戦争で夫を失った戦争寡婦もいる。イスラム教が一夫多妻制を認めたのは、戦争寡婦の救済や保護が目的だったという。福祉制度が未整備だった当時の日本でも、富裕な男たちが妾を囲うのはそういった一面があった。福之進が妾として養ってやらなければ、遊女となり体を売るしかない状況に追い詰められる女性もいただろう。そんな事情も知らずに妾との関係を断つよう執拗に要求してくるチカが、彼には「自分のことしか考えていない、ワガママで世間知らずのお嬢様」と映っていたのかもしれない。
大阪芸術大学卒業。近・現代史を中心に歴史エッセイやルポルタージュを手がける。著書に『ウソみたいだけど本当にあった歴史雑学』(彩図社)、『牧野富太郎~雑草という草はない~日本植物学の父』(角川文庫)などがある。
