15代藩主・大関増裕はよそ者扱い
弾右衛門の家は代々200石の知行を与えられていたが、これは黒羽藩のような小藩ではトップクラスの上士にランクされる。名字から察せられるように主家の血筋に通じるといわれ、先祖には家老職に就いた者もいた。家格としては問題ないのだが、当時はまだ40歳にもなっていない若輩だったことが、年功序列を重んじる者たちには面白くない。
また、主君の増裕は遠江横須賀藩主・西尾忠宝の三男で、世継ぎのなかった第14代大関増徳の養嗣子に迎えられ家督を継いでいる。余所者が藩政を引っ掻きまわしていると受け取る者も多かった。が、主君を表立って批判することはできない。そのため増裕の意を汲んで藩政を主導する弾右衛門が標的にされる。
弾右衛門は藩の財政を立て直す
家老就任当初の弾右衛門は、改革によって既得権益を奪われた者たちに憎まれ非難された。しかし、藩の借金が減り財政事情が好転するようになると、藩内随一の経済通と評価されるようになり、批判の声も聞かれなくなっていた。
戦雲漂う幕末期、増裕は軍備の増強にも熱心だった。彼は江戸在府の頃に蘭学や洋式砲術を学び、欧米の事情や兵器に詳しい。弾右衛門が硫黄採掘によって得た潤沢な資金を惜しげもなく投入し、12門の大小砲と600挺の小銃を購入した。その中には北関東や東北の諸藩がまだ装備してない最新鋭のスペンサー連発銃も含まれている。
また、農兵を組織して400名の兵士を動員できる体制も整えた。2万石にもとどかない小藩ながら、その火力や兵力は幕末期の北関東最大の7万石を誇った宇都宮藩を凌駕している。