※本稿は、青山誠『大関 和 看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール』(角川文庫)の一部を再編集したものです。
チカの父・弾右衛門、家老を辞す
大関弾右衛門は大政奉還の翌年、慶応4年(1868)8月7日付で黒羽藩の家老職を辞していた。この大変な時期に家老がいきなり辞めてしまえば、無責任だとか非常識といった批判が起こる。が、弾右衛門はそれに一切弁明することなく藩とは距離をおいた。
「家禄も屋敷も返上して、明日からは乞食をすることになるかもしれぬ。これも、大関弾右衛門の子に生まれし不幸を思って諦あきらめよ」
藩庁に辞表を提出した日、弾右衛門は家族を呼んでこのように宣言した。家老を辞職するだけではない。家禄や屋敷を返上して藩領内から退去する覚悟をしている。彼には2人の息子と3人の娘がいる。長女はすでに他家に嫁いでおり、きょうだいの中で一番の年長がこの年10歳になった次女のチカ(和)だった。
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— NHK宇都宮 (@nhk_utsunomiya) September 17, 2025
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自然溢れる那須で撮影をスタート
写真は、祭りのシーン撮影後の
”大雄寺”での #見上愛 さん
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チカは次女で“空気が読めない”
チカは安政5年(1858)4月11日の生まれ。同年9月には「安政の大獄」が始まり、世の中が騒がしくなりだす。激動の幕末が始まった年に生まれた娘は、素直で真っ直ぐな気性に育った。少し真っ直ぐ過ぎて……時々、大人たちも手を焼いた。裏表のない正直者は、自分の感情を偽り隠すことができない。相手が誰であろうが、思ったことは言わずにはいられない。納得できない返答をしようものなら、いつまでも食い下がってくる。それがチカの平常運転なのだが、このときは何も言えずにただ驚き絶句するばかり。
家老の娘として何不自由なく暮らしてきた。この後もそんな暮らしがつづくと信じて疑わなかったのだが、明日からは禄も屋敷も奪われて路頭に迷うことになるかもしれないのだ。まったく予想していなかったこの事態に、思考が追いつかない。苦悶に満ちた父の表情を呆然と眺めつづけたという。
黒羽藩では長年にわたり4名の家老を置いていた。しかし、文久3年(1863)に第15代藩主となった大関増裕は、それを半減して2名とする大胆な人事をおこなった。そのひとりに当時まだ37歳だった弾右衛門が抜擢される。
15代藩主・大関増裕はよそ者扱い
弾右衛門の家は代々200石の知行を与えられていたが、これは黒羽藩のような小藩ではトップクラスの上士にランクされる。名字から察せられるように主家の血筋に通じるといわれ、先祖には家老職に就いた者もいた。家格としては問題ないのだが、当時はまだ40歳にもなっていない若輩だったことが、年功序列を重んじる者たちには面白くない。
また、主君の増裕は遠江横須賀藩主・西尾忠宝の三男で、世継ぎのなかった第14代大関増徳の養嗣子に迎えられ家督を継いでいる。余所者が藩政を引っ掻きまわしていると受け取る者も多かった。が、主君を表立って批判することはできない。そのため増裕の意を汲んで藩政を主導する弾右衛門が標的にされる。
弾右衛門は藩の財政を立て直す
家老就任当初の弾右衛門は、改革によって既得権益を奪われた者たちに憎まれ非難された。しかし、藩の借金が減り財政事情が好転するようになると、藩内随一の経済通と評価されるようになり、批判の声も聞かれなくなっていた。
戦雲漂う幕末期、増裕は軍備の増強にも熱心だった。彼は江戸在府の頃に蘭学や洋式砲術を学び、欧米の事情や兵器に詳しい。弾右衛門が硫黄採掘によって得た潤沢な資金を惜しげもなく投入し、12門の大小砲と600挺の小銃を購入した。その中には北関東や東北の諸藩がまだ装備してない最新鋭のスペンサー連発銃も含まれている。
また、農兵を組織して400名の兵士を動員できる体制も整えた。2万石にもとどかない小藩ながら、その火力や兵力は幕末期の北関東最大の7万石を誇った宇都宮藩を凌駕している。
戊辰戦争で幕府から出兵要請が…
黒羽藩の軍事力は幕閣の間でも評判になっていた。戦乱の世では力のある者が重用される。増裕は慶応元年(1865)に新設された海軍奉行に任じられた。幕府海軍の最高職である。また、2年後には若年寄にも就任した。幕府では老中に次ぐ要職、外様の小藩主としては異例の抜擢だった。しかし、増裕は幕府の命運が尽きているのを悟り、この頃すでに佐幕から勤王への転換を模索していたといわれる。
増裕の若年寄就任からまもなく大政奉還が行われたが、徳川慶喜は幕軍を従えて京に居座り薩長勢力と睨みあっている。慶喜は増裕にも藩兵を率いて上洛するよう命じてきた。
藩存亡の危機の中、増裕が急死
増裕は上洛の準備を理由に江戸から帰藩する。しかし、悩んでいた。いま上洛すれば黒羽藩が戦いの矢面に立たされるだろう。難しい舵取りになる。判断を間違えれば藩が滅びるだけに、方針はなかなか定まらず、気分転換しようと狩猟にでかけることにした。獲物を追いかけて金丸八幡宮(那須神社)の社殿裏手にある雑木林に入ったのだが、ここで猟銃の暴発による事故で急死してしまう。慶応3年(1868)12月9日のことだった。
増裕の死の真相については自殺説や他殺説など様々な噂が流布した。旧黒羽藩士・小林華平が著した『黒羽藩戊辰戦史資料』では、
「増裕公郊外遊猟南金丸村八幡社裏雑木林中に於て午後二時頃西洋猟銃を以て自尽せられたり」
と、自殺説をとっている。幕府の恩に報いて佐幕を貫き滅びるか、勤王に乗り換えて藩の生き残りをめざすか。判断に悩み苦しんだあげく、鬱状態に陥っていたという。
これは増裕の側近中の側近だった弾右衛門の見解がもとになっている。弾右衛門の妻テツやチカと顔見知りだった著者の小林は、彼女らが生前の弾右衛門から聞いた話を聞き取ってこれを書いたという。
「女にも学問が必要だ」が口癖の父
弾右衛門は政治向きの話や世の動きについて、妻や子たちにもよく語って聞かせていた。「女にも学問が必要だ」が口癖で、チカにも算術や漢字の読み書きを習わせている。政治情勢や藩の現状についても知っておくべきだと思って、話を聞かせていたようだ。“異国かぶれ”と陰口を叩かれていた主君の影響もあったのだろうか、弾右衛門は田舎武士には珍しく進歩的な考えを持っている。また、増裕の死後は厳しい立場に置かれて人づきあいが途絶えたこともあり、妻や娘たちとの語らいが気晴らしにもなっていたのだろう。
増裕が亡くなると、改革の抵抗勢力がとたんに息を吹き返して藩政を牛耳った。2名に減じられていた家老は6名に増員され、寄合いは守旧派の重臣たちで固められる。
不器用ゆえ旧勢力に追い詰められる
敵対勢力に囲まれて孤立無援となった弾右衛門は力を失い、改革路線の後退を傍観するしかない。その状況に耐えきれず辞表を提出するのだが、敵対する者たちはこれ幸いと「弾右衛門は気が触れた」と噂を流す。精神障害者のように扱って無視するようになっていた。
弾右衛門がもう少し融通の利く性格であれば、政敵とも上手く交渉して妥協を引きだすことができたかもしれない。また、関係を修復して家老に留任し、居心地のよい立場を維持するのも可能だったはず。藩の経済を支える硫黄採掘事業を成功に導いた功労者、敵対する者も、経済に関しては藩内随一とその手腕を高く評価していた。手放すには惜しい才能なのだが、しかし、取り扱いが難しい。原理原則を重視する頑固者は、増裕の死後も改革路線の継承者として事あるごとに苦言を呈していた。
有能な男ではあるのだが、協調性がなくて空気が読めない。いくら有能でも「こんな面倒臭いヤツはいらない」と疎まれるようになる。
