「香港人なのに香港に住めないなんて、おかしい」

そう聞かされて思い起こすと、きらめくだけではない香港の記憶がいくつもよみがえってくる。

例えば、「香港人立ち入り禁止」の看板。

街の至るところで香港人が入ってはいけない場所が存在していたのだ。子どもだった私には「立ち入り禁止」を示す看板の詳細はあまりわからなかったが、白人がいかに香港人を支配していたかは明確に感じ取れた。

また、香港島には「荷李活道(ハリウッド・ロード)」と呼ばれる有名な道路がある。当時、この道路よりも標高が高い場所には、香港人の居住は禁止されていたそうだ。

「香港人なのに香港に住めないなんて、おかしい」と9歳ながらに衝撃を受けたことを覚えている。

当時の香港の指導者層は英国人。街で行われている西洋式のきらびやかなクリスマスは、英国人と観光客向けのものだった。香港人は貧しく、身なりにも暮らしぶりにも歴然とした差があった。

でも、それ以上に9歳の私にとって衝撃的だったことがある。

子どもたちが広東語と英語を話すことだ。

自分と年の変わらない子どもたちが、ふたつの言葉を使っている!

英語を話せる子どもと出会ったのはこれが初めてで、大人たちは英語が話せないのに子どもはバイリンガルが当たり前になっていることに驚いた。しかし、その素朴な驚きは大人になるにつれ、苦い記憶になっていった。

九龍のショッピングストリート。1978年3月、香港
九龍のショッピングストリート。1978年3月、香港(写真=LBM1948/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

言語を奪えば、文化を破壊できる

香港をはじめ、英国の植民地だったインド、ビルマ、セイロン、マラヤ、シンガポール、カリブ海地域のジャマイカ、バルバドス、トリニダード、ガイアナ、バハマ、アフリカのガーナ、シエラレオネ、ナイジェリア、タンザニア、ケニア、ウガンダ、スーダン、ガンビア、南アフリカ、ローデシア(ジンバブエ)、エジプトなどはどこも英語を「使わされる」ようになった歴史があると知ったことが、苦い記憶になった原因だ。

白人に国を押さえられると、自国の言葉が奪われ、征服した国の言語である英語やフランス語、スペイン語に「上書き」されていく。

言葉が奪われると、文化も奪われるのだ。

ある国を植民地にしようと考えたら、その国の「言語を奪う」のが一番の早道だ。

フィリピンが今も貧しいのは、大航海時代にスペインの植民地となり、元々あった言語をスペイン語に上書きされただけでなく、さらにその後、米西戦争でアメリカに植民地化されて英語に上書きされたからだ。

第二次世界大戦の始まった頃にフィリピンはアメリカ領としてマッカーサーが駐在していたわけだから、当然、公用語は英語だった。島々にあった独自の文化は失われ、今のフィリピンでは英語の他にタガログ語をベースに人工的につくられたフィリピノ語が使われている。

元々、本土と島々で使われていたかつての言語は奪われ、彼ら独自の文化が失われてしまったのだ。