心の闇を打ち明けられる唯一の相手
ハーンは明治37年(1904)9月26日、狭心症のために54歳で死去したが、50歳を超えたころから肉体の衰えを強く感じ、遠からず訪れる死を意識していた。そんな最晩年の日々に、種々の心配事についてハーンが熱心に書き送った相手がビスランドだった。
セツは英語ができなかっただけに(日本女性らしさを求めるハーンは、セツが英語を学ぶことを嫌ったのだが)、ビスランドは心の闇を打ち明けられる唯一の相手だったのかもしれない。
そんなビスランドは、ハーンの死を4日後の新聞報道で知り、すぐにセツに宛てて心のこもった手紙を送った。続いて、1年近く経ってから書かれたセツ宛ての手紙では、もとはビスランドが横浜で知り合った相手で、ハーンが晩年に大親友になった元アメリカ海軍主計官ミッチェル・マクドナルドと、『古事記』の英訳者でハーンに松江での英語教師の職を斡旋したB.H.チェンバレンの勧めもあって、ハーンの伝記を書き、書簡集を編纂する旨を伝えている。
しかも、本から得られる収入は、すべてセツと子供たちに贈呈するというのである。ハーンとビスランドの関係は、セツが嫉妬すべきものだったかもしれないが、結果として、ハーンの死後にその関係が、セツと子供たち、すなわちハーンの遺族に恩恵をもたらしたのはまちがいない。
本の収入はすべてセツたちに贈呈
ビスランドが編集した『ラフカディオ・ハーンの生涯と書簡』は、明治39年(1906)12月に、ボストンのホートン・ミフリン社から2巻本として刊行され、実際、そこからの収益はすべてセツのもとに贈られた。
明治40年(1907)だろうか、9月18日付でビスランドからセツに送られた手紙には、以下のように記されている。
「『生涯と書簡』が好評で、あなたとお子さんたちに十分な利益になったことをとても嬉しく思います。親愛なるラフカディオも喜んでいることでしょう。世界中から私のもとに届いた素敵な手紙の数々をあなたに見せられないのが残念なほどです。どれもあなたのご健康を気遣い、あなたの夫への称賛に満ちたものでした。彼はあの素晴らしい書簡で何千人もの友人と愛読者を得たのですね。/ラフカディオも、まさか自分が手紙を書いている間にあなたの将来への備えをしていたと知ったら、どんなに驚いたことでしょう!」(横山竜一郎訳)
「自分が手紙を書いている間にあなたの将来への備えをしていた」とは、手紙が書簡集になって印税を稼ぎ出し、その印税が将来の妻子の生活の糧になる、という意味である。明治43年(1910)には、ビスランドの編集でハーンの2冊目の書簡集がアメリカで刊行された。「将来への備え」は、ビスランドのおかげでますます盤石になっていった。