※以下の原稿は、NHK連続テレビ小説「ばけばけ」12月22日以降の放送内容を含みます。
朝ドラで描かれたハーンの「想い人」
文机の上に置かれた写真立てには、ひとりの外国人女性の写真が入れられ、レフカダ・ヘブン(トミー・バストゥ)は周囲も驚くほど、それを大切にあつかっていた。そんな場面がたびたび描かれてきたNHK連続テレビ小説「ばけばけ」。第13週「サンポ、シマショウカ。」(12月22日~26日放送)では、いよいよその女性が登場する。シャーロット・ケイト・フォックスが演じるイライザ・ベルズランドである。
別れた夫の山根銀二郎(寛一郎)から手紙が届き、松江を訪ねるというので、トキはその日を休暇にしたくてヘブンに打診する。最初は渋ったヘブンだが、英字で書かれた手紙が届くと、トキが休むのをあっさり認めた。その手紙の差出人がベルズランドだった。
怪訝に思ったトキが差出人の名前を書きとめ、松江中学でヘブンと同僚の錦織友一(吉沢亮)に聞いてみると、その人こそがヘブンの文机の上に置かれた写真の女性で、しかも、銀二郎が来るのと同じ日に松江に現れるかもしれないという。
現れたイライザは、日本に行くようにヘブンに勧めたのは自分だと語る。そういう経緯があるので、ヘブンも日本に滞在中にイライザを呼んだ、ということのようだ。
しかし、「ばけばけ」では、すでにトキとハーンは、自分の心にしっかり気づいてはいないながらも、惹かれ合っている。トキは銀二郎、ヘブンはイライザとあらためて会い、大切なのはヘブンだ、大切なのはトキだとたがいに気づくのだろうか。
「ばけばけ」とは異なる2人の関係
イライザ・ベルズランドのモデルのエリザベス・ビスランドは、ヘブンのモデルであるラフカディオ・ハーンと影響をあたえ合った。
ハーンより10歳余り年下のビスランドが、文筆の世界に飛び込んだきっけかは、ハーンが書いた記事を読んだことだという。彼女がニューオーリンズの新聞社タイムズ・デモクラットに入社したとき、同社の文芸部長がハーンだった。その後、「コスモポリタン」誌の記者時代に、雑誌の企画で世界一周に挑んで訪日し、横浜に2日間滞在したビスランドは、日本の美しさや純粋さ、清潔さなどをハーンに語って訪日を勧めた。
つまり「小泉八雲」という文学者は、ベルズランドがハーンに日本行きを勧めなければ、誕生しなかったことになる。
ただし、「ばけばけ」のイライザと違って、ハーンの存命中に訪日し、2人が日本で会うという機会は訪れなかった。ハーンはその後、日本から出なかったので、死ぬまでビスランドに会うことはなかった。いや、だからこそ、相互にあきらめ合った「ばけばけ」のイライザとヘブンとは異なり、2人はいつまでも心の恋人同士でいられたのかもしれない。
会えないからこその恋情
2人は会えないまでも、多くの書簡を交わした。ハーンの長男の小泉一雄は著書『父小泉八雲』に、「エリザベス・ビスランド女史との親交は、あるいは一種の恋愛ともいえるかもしれぬ。しかし、それは白熱の恋ではない。沢山の蛍のごとき清冽な恋である」と書く。では、どんな内容なのか。その一部をハーンとセツのひ孫である小泉凡氏が記した『セツと八雲』(朝日文庫)から引用する。
「あなたの日本に関する本を読み終え、ここ2、3日どんなに楽しませていただいたかお伝えしたいという気になった。私はあなたのいる日本をもう一度見たいと思い焦がれている」(ビスランドから八雲へ、1895年6月15日)
「何度も何度もあなたに宛てて手紙を書いては火の中に投じた。その後私は髪が灰色になり、今は3人の男の子の親。たびたびあなたが気に入るような書物を書きたい」(八雲からビスランドへ、1900年1月)
ちなみに、ビスランドもハーンがセツと結婚したのと同じ明治24年(1891)、ニューヨークの弁護士チャールズ・ウエットモアと結婚していた。だが、会うことが叶わず、今日と違って、たがいの姿を見ることもできない状況下でこそ燃え上がる恋情のようなものが、上記の手紙にあふれているように感じられる。
心の闇を打ち明けられる唯一の相手
ハーンは明治37年(1904)9月26日、狭心症のために54歳で死去したが、50歳を超えたころから肉体の衰えを強く感じ、遠からず訪れる死を意識していた。そんな最晩年の日々に、種々の心配事についてハーンが熱心に書き送った相手がビスランドだった。
セツは英語ができなかっただけに(日本女性らしさを求めるハーンは、セツが英語を学ぶことを嫌ったのだが)、ビスランドは心の闇を打ち明けられる唯一の相手だったのかもしれない。
そんなビスランドは、ハーンの死を4日後の新聞報道で知り、すぐにセツに宛てて心のこもった手紙を送った。続いて、1年近く経ってから書かれたセツ宛ての手紙では、もとはビスランドが横浜で知り合った相手で、ハーンが晩年に大親友になった元アメリカ海軍主計官ミッチェル・マクドナルドと、『古事記』の英訳者でハーンに松江での英語教師の職を斡旋したB.H.チェンバレンの勧めもあって、ハーンの伝記を書き、書簡集を編纂する旨を伝えている。
しかも、本から得られる収入は、すべてセツと子供たちに贈呈するというのである。ハーンとビスランドの関係は、セツが嫉妬すべきものだったかもしれないが、結果として、ハーンの死後にその関係が、セツと子供たち、すなわちハーンの遺族に恩恵をもたらしたのはまちがいない。
本の収入はすべてセツたちに贈呈
ビスランドが編集した『ラフカディオ・ハーンの生涯と書簡』は、明治39年(1906)12月に、ボストンのホートン・ミフリン社から2巻本として刊行され、実際、そこからの収益はすべてセツのもとに贈られた。
明治40年(1907)だろうか、9月18日付でビスランドからセツに送られた手紙には、以下のように記されている。
「『生涯と書簡』が好評で、あなたとお子さんたちに十分な利益になったことをとても嬉しく思います。親愛なるラフカディオも喜んでいることでしょう。世界中から私のもとに届いた素敵な手紙の数々をあなたに見せられないのが残念なほどです。どれもあなたのご健康を気遣い、あなたの夫への称賛に満ちたものでした。彼はあの素晴らしい書簡で何千人もの友人と愛読者を得たのですね。/ラフカディオも、まさか自分が手紙を書いている間にあなたの将来への備えをしていたと知ったら、どんなに驚いたことでしょう!」(横山竜一郎訳)
「自分が手紙を書いている間にあなたの将来への備えをしていた」とは、手紙が書簡集になって印税を稼ぎ出し、その印税が将来の妻子の生活の糧になる、という意味である。明治43年(1910)には、ビスランドの編集でハーンの2冊目の書簡集がアメリカで刊行された。「将来への備え」は、ビスランドのおかげでますます盤石になっていった。
偽りのない感謝の気持ち
その後、明治44年(1911)には、ビスランドは夫と一緒に世界周航の旅に出て、その途中にセツらハーンの遺族が住む東京の西大久保の家を訪ねている。ちなみに、夫のウェットモアは、外務大臣として日英同盟の成立に努め、日露戦争のポーツマス条約を締結し、条約改正を成功させた小村寿太郎と、ハーバード大学で同級生だったそうだ。
ビスランドは未亡人になってからも、大正11年(1922)に来日し、セツのもとを訪ねている。来日の回数はハーン死後だけで3回におよんだ。
広大な邸宅には日本庭園が設えてあったそうで、ビスランド自身、茶道の嗜みがあったという。ハーンと話が合うわけである。この来日の前年には、ワシントンD.C.で第一次世界大戦後の国際軍縮会議であるワシントン会議が開かれたが、その際、日本から送られた3人の全権代表のうち、加藤友三郎と徳川家達を自邸に招いて饗応したといわれる。
セツは手紙を通して、また、会ったときには直接、かぎりない感謝の念をビスランドに伝えている。もしかすると、夫の「心の恋人」への嫉妬心もあったかもしれない。しかし、夫の死後にもこれほど尽くしてくれるビスランドに対しては、偽りのない感謝の気持ちをいだいていたのではないだろうか。