「会社の金にはいっさい手を付けなかった」
一方で、鈴木修と1974年から50年の付き合いがあった秋田スズキ会長の石黒寿佐夫は言う。
「修さんはカリスマではない。私のような立場でも、言いたいことは言えるし、やりたいこともやってきたから。(鈴木修から)怒られるのを覚悟で、スズキ仕様ではない独自設計のショールームを作ったこともありました。
しかし、修さんと接したことも話したこともない数多くの関係者にとって修さんは、“雲の上の人”であり、気がつけばカリスマ的な存在になっていったのです。修さんの実像は、口うるさくて厳しいけれど、面倒見の良いオヤジさん。義理深いんです」
秋田スズキは、スズキの資本が入っていない秋田県の四輪と二輪の総代理店。特約店への卸機能と、「アリーナ店」の看板を掲げ一般顧客への販売機能をもっている。
石黒佐喜男が1954年、秋田市内に創業。佐喜男の長男で51年生まれの寿佐夫は、94年から2024年まで社長を務めた二世経営者だ。
「修さんは廉潔な人。公私をきちんと分けます。大好きなゴルフでは、ウエアもクラブも同じものを何年も使い続けていた。会社の金には、一銭も手をつけない。だから、みんな修さんを信頼した。
会社を私物化したゴーンとは、ここが決定的に違います」、と石黒寿佐夫。
浜松市が政令市移行前の2005年、市長の諮問機関として設置された行財政改革推進審議会の会長に鈴木修は就任した。会長職を2期4年間務め、12市町村が合併した後の行財政改革に深く携わった。同時期に同審議会の委員を務めた浜松市内の酒販店店主は、こんな証言をする。
「修会長はあれだけの大企業のトップでありながら、贅沢していないんですよ。私たち庶民と同じように、納豆とか食べている。とても気さくな方で、威張ったりもしなかった」
自動車産業では後発であり、「浜松の中小企業」(鈴木修)であるスズキは、激動する自動車業界にあって単独での生き残りは難しく、大手との提携を重ねてきた。戦国時代の真田氏のように。
「トップダウン・イズ・コストダウン」
「ボトムアップ・イズ・コストアップ。トップダウン・イズ・コストダウン。スズキ・イズ・トップダウン。イッツ・ソー・ファスト」
97年秋、東京モーターショーのため来日していたジャック・スミスGM会長(当時)に、ミーティングの席で鈴木修は、簡単な英語でこう叱責した(東京の寿司屋で叱責したという説もある)。このとき、スズキのハンガリー工場とGMポーランド工場の双方で生産する共同開発車計画が浮上していたが、スミス会長は鈴木修の提案を持ち帰っては幹部と相談してばかりで、なかなか合意できないでいた。
そこで、鈴木修が、「早く決めろよ」とばかりに催促した。すると、スミスはすぐに決断し、計画は具体化されていった。
スズキとGMの資本提携は1981年。1989年からはカナダに建設した合弁工場で小型車の生産を始めた。スミスと鈴木修の仲がいいことは有名。01年6月にスミスはスズキの非常勤取締役に就任する。スミスも、2000年6月にスミスから最高経営責任者(CEO)職を禅譲されたリチャード・ワゴナーGM社長(当時)も、かつてカナダ工場を担当した経験を持つ。
「運なんだよ。当社と関わりの深い二人が、GMの中枢に上っていったのだから」と鈴木修。

