※本稿は、池田雅之『小泉八雲 今、日本人に伝えたいこと』(平凡社新書)の一部を再編集したものです。書籍とは文章の順番などが異なります。
ラフカディオ・ハーンの共同製作者だった妻
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン、1850~1904年)の日本時代における創作と取材には、セツ(1868~1932年)の協力と同行が欠かせないものでした。二人の生活のひとこまを『思い出の記』から紹介したいと思います。
セツの『思い出の記』は、八雲とセツとの仲むつまじい夫婦関係を知るだけでなく、八雲の最高傑作といわれている『怪談』誕生の秘話を知るうえで、きわめて貴重な作品といえます。
『思い出の記』は、八雲の没後、セツが、八雲の信頼していた友人、三成重敬に請われるまま語ったものですが、三成が速記し、編集し直したものです。三成がセツを上手に導いて、一つの「文学作品」にまで仕上げた名品といってよいでしょう。三成の編集ぶりも見事だと思いますが、何よりもセツの語り手としてのすばらしさを、見落とすわけにはいきません。
セツの『思い出の記』には、八雲とセツの『怪談』完成の秘話といってよい創作現場の生なましさがつぶさに語られています。その一節を引用してみます。
(八雲は)怪談は大層好きでありまして、「怪談の書物は私の宝です」と言っていました。私は古本屋をそれからそれへと大分探しました。(中略)私が昔話をヘルンに致します時には、いつも始めにその話の筋を大体申します。面白いとなると、その筋を書いて置きます。それから委しく話せと申します。それから幾度となく話させます。
私が本を見ながら話しますと「本を見る、いけません。ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考えでなければ、いけません」と申します故、自分の物にしてしまっていなければなりませんから、夢にまで見るようになって参りました。
このセツの語りからは、『怪談』は助手という立場を超えて、八雲とセツの共同作業によって誕生したことがはっきりとうかがい知ることができます。さらにいえば、『怪談』だけでなく、八雲の日本時代の13冊にも及ぶ著作の誕生の背景には、セツの助力があったことが分かります。
「私に学歴がないから」と詫びた妻セツに…
もう一つ、逸することのできない八雲とセツの心あたたまるエピソードを取り上げたいと思います。東京時代の出来事だと思いますが、セツが八雲から万葉(集)についての質問を受けたことがありました。セツはうまく答えられず、「程度の高い女学校を卒業しなかった事、および、自由に英語を話す事のできないのを残念に思う」と答え、自分の浅学を八雲に詫びたことがありました。
すると、八雲は即座に自分の著作の数々を示し、「これだけの書物は誰の骨折でできましたか」と問い返したといいます。セツのこれまでの労をねぎらう言葉でした。