皇位継承問題において江戸時代から学べることは何か。皇室史に詳しい宗教学者の島田裕巳さんは「敬宮愛子内親王御誕生の際、徳川家で育った女性皇族が贈ったメッセージから『世継ぎの確保』が古来いかに難しかったかがわかる」という――。

なぜ「大奥」は閉鎖空間なのか

現在、上野の東京国立博物館の平成館で開かれている特別展「江戸☆大奥」を観に行った。愛子内親王などの女性皇族について考えていくと、現在の皇居の前身となる江戸城でどういった生活がくり広げられていたのか気になってくるからである。

大奥は江戸城にあり、徳川の歴代将軍の御台所みだいどころ(正室)や側室、さらにはそうした女性たちの生活を支える女中たちが暮らしていた場所である。

江戸城の本丸御殿は、「表」、「中奥」、「大奥」に分けられていた。表は政治や儀礼の場で、中奥は将軍が起居し政務を司った場である。大奥は、表や中奥とは銅塀で仕切られており、中奥と大奥をつなぐのは「御鈴おすず廊下」だけであった。大奥は男子禁制で、御殿医以外の男性は入ることができなかった。

平安京における後宮のあり方については、拙著『日本人にとって皇室とは何か』の第4章でもふれた。そちらが男子も自由に立ち入ることができる開かれた空間であったのに対して、大奥は閉鎖的な空間であり、その点で対照的である。

平安京における後宮が開放的であったことは、世界史的に見ても特筆すべきことだが、大奥の場合には、世界の王室に見られる「ハーレム」と共通する。将軍の血を引いた正しい世継ぎを確保できるよう、外界とは隔絶されていたのだ。

愛子さま=2021年12月5日
写真=ロイター/共同通信社
愛子さま=2021年12月5日

正室から生まれた徳川家将軍は誰か

ところがである。これは、「江戸☆大奥」展の最初にあった歴代の御台所の略歴を紹介するパネルを見て驚いたのだが、御台所の中で歴代の将軍を生んだのは、第2代将軍秀忠の御台所、崇源院すうげんいん(おごう)だけであった。つまり、第3代の家光だけが御台所から生まれた将軍なのである。

最後の将軍となった慶喜の場合には、正室の子として生まれてはいるのだが、父は水戸藩主の徳川斉昭だった。つまり、生母が将軍の御台所であったわけではない。

最初、徳川将軍の御台所は、豊臣秀吉の妹や養女であったりした。だが、第3代将軍の家光からは、摂関家や親王家から嫁いでくるようになる。第14代将軍の家茂ともなれば、その御台所は光明天皇の妹和宮かずのみやだった。

これは、当時進められていた「公武合体」の一環だった。公である朝廷の権威と、武としての幕府を結びつけ、開国を迫られた政治体制の強化をはかろうとしたのである。

だが、最も悲劇的なのは、第7代将軍家継の御台所となった吉子よしこ内親王だった。彼女は、第112代の霊元天皇の第13皇女だったが、婚約したのは満1歳のときである。ところが、納采の儀の2カ月後に家継がわずか6歳で夭折しているため、1歳7カ月で後家になっている。44歳まで生きたが、父の死後には出家している。いったいどういう生涯だったのだろうか。想像も難しい。