明治時代に「アンチ源氏」が多かった理由

古典文学の代表格とも呼び得る本作ですが、この物語を拒絶する「源氏嫌い」の系譜も根強く存在しました。鎌倉時代の仏教説話集『宝物集』には、妄語を語った罪によって紫式部が地獄に落ちたという話が記されています。

江戸時代になると和歌・物語文化の担い手であるはずの天皇からも、「源氏」に耽溺する文弱な朝廷文化を批判する意見が出ました。「源氏物語」を軟弱な誨淫の書と見なす考え方は、日本文化のなかを静かに底流し続けていたのです。

なかでも明治維新に伴う富国強兵思想の確立は、大きな危機でした。キリスト教の伝道者である内村鑑三は、「あのような文学はわれわれのなかから根コソギに絶やしたい」と、正宗白鳥は「読みながらいく度叩きつけたい思いをしつづけたか(中略)無類の悪文である」と、それぞれ酷くこき下ろしています。

内村の言葉は、キリスト教徒の修養会である夏期学校での講演で語られたものですが、頼山陽の『日本外史』を称揚したうえで、「『源氏物語』が日本の士気を鼓舞することのために何をしたか。何もしないばかりでなくわれわれを女々しき意気地なしになした」と語っていることから、明確に思想上の嫌悪であったことが窺えます。

一方の正宗も「気力のない、ぬらぬらした、ピンと胸に響くところのない、退屈な書物」とは言ってはいるものの、批判の前置きに「内容は兎に角……」と記しており、ストーリーについては批判していません。

さまざまな理由から生じた根強い「源氏嫌い」の文化がありつつも、「源氏物語」は熱心な読者たちに支えられ、辛辣な批判をはねのけ続けてきました。今度は、この物語を愛した人々の歴史を追ってみましょう。

「源氏物語」を世に広めたオタクたちの功績

藤原定家による校訂については先に述べた通りですが、同時期の河内守源親行・光行親子による校訂も、無視することができません。万葉学者としても著名なこの父子は、本文の一字一句にこだわり抜き、長い年月をかけて『河内本源氏物語』を完成させました。

著作権という概念が存在しない時代、物語は改変されて広まっていくのが普通でした。そんな時代を経て、私たちがある程度信頼できる「源氏物語」に触れることができるのは、こうした「源氏物語」を愛した人々の功績であると言えるでしょう。

石山寺で源氏物語を詠む紫式部 八島岳亭・画(写真=スミソニアン博物館コレクションより/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

写本が確立したことで、「源氏物語」研究が幕を開けます。室町時代の歌人・四辻善成は『河海抄』という初期の集大成とも呼び得る注釈書を完成させました。源氏オタクである彼は、300年以上前の作品を正確に読み解こうと、語句の解釈だけでなく、出典調査や準拠の指摘に挑みました。

知識階級の独占物であった「源氏物語」の大衆化に一役買ったのが、江戸時代の歌人・北村季吟です。季吟が記した『湖月抄』という注釈書は、本文と注釈を1冊で確認できる、当時としては大変画期的なものでした。これにより、多くの人々が手軽に「源氏物語」の世界に触れられるようになります。