2代将軍・秀忠が作った隠し子の子孫も、松平を名乗る

2代将軍・徳川秀忠は大奥(奥方)の外で子ども作ってしまい、認知されなかった。その子は、武田信玄の娘・見性院けんしょういんのツテで、旧武田家臣・保科ほしな家の養子となり、保科正之と名乗った。のちに徳川一門と認知され、松平に改姓するように打診されたが、正之は分をわきまえて断った。しかし、子の3代・松平正容まさかたは、5代将軍・徳川綱吉に気に入られ、松平姓を賜った(会津松平家)。子孫の松平容保は幕末の京都守護職として有名である。

3代将軍・徳川家光の3男・徳川綱重は、父が41歳の時の子で、「厄年の子は育たぬ」との迷信から姉の千姫に養われた。そこで千姫付きの女中、7歳年上のお保良の方との子をもうけた。のちの6代将軍・徳川家宣である。