※本稿は、佐々木浩著『孤高の料理人 京料理の革命』(きずな出版)の一部を再編集したものです。
もう死ぬのかな
お店の改装工事で休業して三か月がすぎた、二〇二三年五月の夜のことです。おつきあいでお客さんと出かけて自宅に戻ると、久しぶりに三女が実家に帰ってきていました。
「一杯だけ、つきあうわ」と、水割りをグラスにつくり、ひとくち飲んだら、心臓が大きく跳ね上がり、一瞬止まったような衝撃が走りました。心臓の鼓動が消えてしまったと思いました。家族に音を聴いてくれ、とお願いしても、
「わからん、微妙」
と、取り合ってくれませんでした。
そのうち、目のまえがブラックアウトして、仰向けにドスンと倒れ込みました。
救急搬送されて、意識が戻ったころ、当直医が、「心臓血管にダメージがあります。明日の朝、循環器科の専門医がきたら、診断します。このまま、入院してください」
といわれました。そこで自分のことを「本名は中村ですが、京都で『祗園さゝ木』という店をやっています」と伝えました。
五日後にコンサートを予定していて、病院から出られなくなると困るんで、終わってから入院するので、手術してほしいと事情を話したところ、
「そんなにもちません。死にますよ」といわれました。

コンサートを中止にするわけにはいかない
夜が明けて循環器科のドクターがきて、検査と診察の結果、
「一刻も早く手術が必要」と告げられたのに、「ちょっと待ってほしい」と抵抗しました。友人の医師に連絡して、何とか手術を回避できないかと相談したものの、診断に従った方がいいと、説得されるばかり。
〈心臓近くの血栓が脳血管にいったら、庖丁を握れなくなるぞ〉
と脅されて、観念しました。その日のうちに、ぼくの心臓にはペースメーカーが装着されました。
なぜ、命にかかわる心臓血管のトラブルなのに、手術を断ろうと無茶ぶりをしたのか。それは五日後のコンサートを中止するわけにはいかなかったからです。
そんなぼくの事情に関係なく、手術は無事に成功しました。
「入院は三日しかできません」と主治医に必死でお願いすると、
「熱が平熱になれば、退院できますよ」と冷静に答えられました。
わがままをいって、病室は音のもれない個室にしてもらい、三日間の入院中は舞台の打ち合わせと、音合わせをオンラインでやりました。
約束の三日間がすぎ、翌朝の検温で三六・三℃。よっしゃ、退院できる!
看護師さんに主治医を呼んでもらい、退院手続きを急ぎました。