県民は何を頼りに投票したのか
再選を期して無所属で立候補した斎藤氏に対し、尼崎市長を3期務めた稲村和美氏や元参院議員の清水貴之氏、N党党首立花孝志氏を含める6人が同じく無所属として出馬。どの候補者を支援するか、党や議会など組織内でも対応が分裂して混乱する中、「どこの党や誰がどの立候補者を推しているのか」との図解が全国放送の報道番組で掲げられ、詳細に解説された。
そこに、県内29市長による市長会の有志22人が稲村氏の支援を表明。N党立花氏は、自身の出馬は斎藤氏応援のためであるとするトリッキーなスタンスを表明、斎藤氏への援護射撃として街頭演説を繰り返すという、選挙という概念の上では斬新さ極まる勝手連携を行った。
ただでさえ無所属6新人とくだんの前知事から投票先を選ばねばならないというカオスの中で、県民はいったい何を頼りに票を投じるのか。
もはや「各自の個人的な正義に照らした好悪」以外ないのである。そうした好悪にもっとも効くものは何か、それはエモいナラティブである。では誰がその最もエモいナラティブを備えていたのか、それはかつて石礫を浴びた絶望の中から不屈の精神で再選へ立ち向かう孤高のダークヒーローである。
かくして、対抗馬として再有力視された稲村氏が「何と戦っているのか分からなかった」と振り返る選挙戦が、斎藤氏の当選確実が開票と同時に速報されるという驚きの「ゼロ打ち当確」で終焉した。
たしかに、稲村氏はあの選挙に担ぎ出され、22市長から支持表明されながら、何と戦っていたのだろう。それは多分まごうことなき、「現代の壊れた民主主義」だったんだろう。
「でもなんせ、人が亡くなっていますのでね」
選挙結果を見て、兵庫県出身で、公務員家庭で育った人がポツリと言った。
「ああいうことがあった時、転職じゃなくて自殺を選ぶのが地方公務員、なんですよね」
彼のやり方が正しかったかどうかじゃない。それは、地方の暮らしにおいては公務員であることが最も安泰であり誇りであり、単なる生活の糧ではなくて人生そのものである、だから死をもって抗議するという、都会の感覚では理解に苦しむ人もいるような行動に出るのだ、という地方サイズのアイデンティティーのあり方を説明する言葉だった。
選挙前、「なんであれ、人が亡くなっているのでね」が地元では一種の正義の印籠だったと先述した。これが示すのは、斎藤氏のやり方が人を抗議の死へ追いやってしまうほどの摩擦を、一度は県政に起こしたということに他ならない。
出直し選挙当選で県からの与信が万全となったわけでもなく、「まさかのゼロ打ち当確」が斎藤氏のこれまでの経緯を真っ白にしたわけでもない。彼の執った県政が人を死へ追いやった、その事実に対して、選挙結果もまた謙虚でなければならない。
1973年、京都府生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。時事、カルチャー、政治経済、子育て・教育など多くの分野で執筆中。著書に『オタク中年女子のすすめ』『女子の生き様は顔に出る』ほか。