「わしゃ興銀マンや」

「そらホント正直に話しましたよ。僕は嘘をつかないことだけは心に銘じているんで。その時、三井物産から良いお返事をもらっていることも言いました。ひょっとしてそれが良かったんちゃうかな? 商社から評価されているいうバイアスがかかったからなのか、興銀からも良いお返事をもらった」

第一志望が商社であることは変わらない。しかし三井物産には自分のような性格の人がたくさんいて、埋もれてしまうのではないか? 興銀なら浮くか沈むかは分からないけれど目立ちはするだろう。山田はそう考えて興銀を選んだ。

「ほんまに経済なんてわからんわけですよ。興銀に入ったって価値は提供できそうにないとも言った。それでも採用するんやったら、そら僕のせいやない。人事部のせいでしょ。そんなつもりやったです」

入行して最初の四年間は市場部門。その後、広島支店に転勤し、ゲームソフト会社コンパイルの担当になった。一世を風靡したソフト「ぷよぷよ」を開発した会社だ。

不動産担保主義の銀行にしてみれば、主な資産と言えばゲームソフトしかないコンパイルは融資しづらい取引先だったが、山田はそれよりもベンチャーの活気にひかれた。

「業を興すから興銀いうんやろ。わしゃ興銀マンや」。心の中でそう叫んで融資を増やすと、いつの間にか興銀は地元の地銀を抑えてメーンバンクになった。

「ぷよぷよ」の著作権を売り融資を回収

だが、コンパイルは放漫経営が祟って一九九八年に経営破綻。

債権回収のため、山田は担保に取っていた「ぷよぷよ」の著作権をセガ・エンタープライゼス(現セガサミーHD)に売って融資の一部を回収した。融資は失敗。本店営業部へ異動となり、業績が芳しくないソフトウエア会社などを担当することになった。

「当時、ゲームソフトという知的財産を売って融資を回収するというのは非常に珍しい手口でした。でもそれをやったから今も世の中に『ぷよぷよ』はあると思うてます。自己満足ですけどね。もっともモノを見る目はあったけれど、会社を見る目がなかった。作っているモノがいくら良くても、組織がちゃんとしていなかったらダメなんやと痛感した」

二年間の広島支店勤務を終えて東京へ戻ってきた山田が聞いたのが上司の「もっと新しいことをやろう。ITやろう」という言葉。そうして目にしたのは眠たそうな顔をしてマンションの扉を開けたホリエモンだったわけだが、その頃、興銀を取り巻く環境は急速に悪化していった。