1980年代後半に入社した、均等法第一世代の大卒女性たちが、定年を迎え始めている。彼女たちは、どのようなセカンドライフを迎えているのか。近畿大学教授の奥田祥子さんは「女性総合職第一号として入社して順調に昇進、部長を務めたある女性は、望んでいた『女性初の本部長や執行役員』にはなれず、57歳で役職定年を機に退職した」という――。(第1回/全3回)

※本稿は、奥田祥子『等身大の定年後 お金・働き方・生きがい』(光文社新書)の一部を再編集したものです。

木製のはしごを登る女性
写真=iStock.com/Liudmila Chernetska
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「仕事が私のすべてだったのに…」

「こんな、はずじゃ、なかった! これまで、必死に、仕事に打ち込んできた、んです。私生活だって、犠牲にした。仕事が私のすべて、だった。そ、れ、なのに……。私は、最後の最後で……会社に見捨てられたん、です……」

2020年。なぜ、会社を辞めたのか――。という問いに数分間、押し黙った後、メーカーの広報部長職を役職定年になるのと同時に自ら職を辞した横沢佐恵子よこざわさえこさん(仮名、57歳)は、嗚咽し、言葉に詰まりながらも、懸命に思いの丈をぶつけた。

「これまで会社のことを悪く言うのは極力避けてきましたが……私たち女性の総合職第一号は……実際には“広告塔”のように扱われて……能力を発揮するどころか、活躍するための機会さえ十分には与えてもらえなかったんです。そんななかでも、私は耐えに耐えて、頑張って……『男社会』の会社をうまく渡り歩きながら、上司に実力を認めさせて、部長にまで上り詰めたんです。そ、それ、なのに……役定(役職定年)を機に、全く経験のない営業部でデータ管理の仕事を打診されるなんて……。派遣の女性で十分の仕事。もう“お払い箱”と言っているのと同じじゃないですか!」

総合職第一号としての入社からの経緯を話すなかで、いったんは感情の昂りも治まりかけたかに見えたのだが、会社から役職定年後に打診された部署と職務を説明しているうちに憤りが再燃したようで、また言葉につかえ、うなだれた。

それまで長年の継続インタビューで横沢さんは、彼女自身の昇進などキャリアの節目をはじめ、女性社員の家庭と仕事の両立、管理職登用など女性に関する社内制度が整備され、社員の意識も変化するたびに、葛藤や戸惑い、不満などさまざまな心境を語ってくれた。そして、それを己の糧として前を向いて進んでいくのが彼女の強みだった。

にもかかわらず、この日の取材では、本来の彼女なら口にすることがないであろう、「男社会」を「うまく渡り歩いた」といった自分の会社員人生を皮肉るような言葉遣いや、「派遣の女性で十分」といった非正規雇用の女性スタッフを見下すような物言いも気になった。

「均等法第一世代」としていくつもの荒波を乗り越えて能力を開花させた女性の前に、キャリア人生の終盤で立ちはだかったものは何だったのか。これまで20年間に及ぶインタビューを振り返り、その要因に迫りたい。