再婚後は夫を献身的にケアし、転勤で別居になると落ち込んだ
戦後すぐ、最初に判事として赴任した名古屋地方裁判所時代は、同地裁で初めての女性判事ということで注目され、取材を受けたとき、「戦争未亡人ですね?」と質問されて「そんな表現を使わないで下さい。戦争未亡人ってイヤな言葉です」と答えている。
最初の夫に死なれ、シングルマザーとして奮闘した15年間の後、同じ裁判官だから仕事上の苦労も分かち合える乾太郎というパートナーを得たことは、精神的に大きかっただろう。同居している間は乾太郎のケアを献身的にしていたようで、「(乾太郎は)絶えず煙草を手にして居られたが、その灰の落ちる前に灰皿で受け止めて居られた」という目撃談もあるほどだ。仕事に忙殺される夫の健康を心配し、一緒にゴルフを始めたというエピソードもある(以上『追想のひと 三淵嘉子』1985年より)。
三淵(嘉子)さんは、明るく愛情深い方だった。(中略)その三淵さんが、いつになく深刻な表情で沈んでおられたことがあった。何事が起きたのかと心配したが、後で伺うと、御夫君が浦和地裁の所長に御栄転になり別居されるということに心を痛められたのであった。東京と浦和は、今私が通勤している距離なのだが、愛情深い三淵さんにとっては耐えられないことだったのであろう。三淵さんは「若いあなたには分らないのよ」とポツリと漏らされた。
(『追想のひと 三淵嘉子』1985年、管野孝久の文章より)
恋愛感情の強い女性だったから、別姓は選べなかったか
前夫の和田芳夫が亡くなったときは、「泣きすぎて顔が紫色になっていた」という嘉子。おそらく顔をゆがめ歯を食いしばって号泣し、顔の毛細血管が切れて内出血してしまったのではないだろうか。感情の激しさがうかがえる逸話だ。
【参考記事】「泣きすぎて顔が紫色に」朝ドラのモデル三淵嘉子は戦争で夫を亡くした…終戦前後に出した「4つの葬式」
乾太郎とも、東京と浦和で別居することになっただけでひどく落ち込んでいたというのが、「愛情深い」嘉子らしい。同時にそれは、それだけパートナーに対する執着心が強いということでもある。
そんな恋愛感情も影響してか、女性法律家の草分けであり最先端のキャリアウーマンでもあった嘉子でも、事実婚は選べなかった。しかし、その真意を汲んだかのようなドラマの展開が朝ドラとしても斬新で、目が離せない。
1995年、出版社に入社し、アイドル誌の編集部などで働く。フリーランスになってからも別名で芸能人のインタビューを多数手がけ、アイドル・俳優の写真集なども担当している。「リアルサウンド映画部」などに寄稿。