母親への期待値がどんどん上がっている
【菅野】三宅さんは近著『娘が母を殺すには?』(PLANETS)の中で、母娘問題に悩む娘が母の規範から脱するためには、「母以外の他者(第三者)に出会うこと」が重要であると指摘されていました。それは言い換えれば、外の世界に「自分のことをわかってくれる大人」「期待できる大人」を見つけるということかもしれません。
私自身は母から肉体的、精神的、ネグレクトなどあらゆる虐待を受けていた真っ只中にあった90年代、漫画や書籍など親以外の大人やカルチャーに育てられたことが大きかったと思います。
私自身の家庭はハチャメチャな機能不全家族でしたが、漫画や活字の本やゲームの中の世界がいわば父や母となってくれた。そのおかげで、かろうじてギリギリのところで踏みとどまることができました。著書『母を捨てる』でも書きましたが、ひきこもっていたときは殺すか、殺されるか、みたいな時期もありましたから。
当時はまだ、社会の中に「救い」の手触りのようなものがあったんです。ところが、2000年代以降はそのような大人が少なくなって、親以外の他者への期待値が下がってしまっているような気がしています。
【三宅】最近、雑誌『現代思想』の「〈友情〉の現在」特集記事を読んで驚いたのが、若い世代の悩み事の相談相手の割合が、友だちは年々下がっている一方で、母親はどんどん上がっていると書かれていたことです。
私は京都市立芸術大学で非常勤講師をしているのですが、学生たちを見ていると、たしかに親が絶対的な存在、唯一自分の弱さを知っている存在だと考えている人が増えていると感じます。
SNSなどで大人の“炎上”を見る機会も増えていますし、フィクションの中でも頼れる大人、強い父親のようなものがしだいに消えていっている印象があります。そうした背景もあって、若い世代の母親への期待値がどんどん上がっているのかもしれません。
家族の「外側」に自分のやりたいことを見つける
【菅野】『友人の社会史』(石田光規著)によると、2003年をピークに、若者たちの間で悩み事を相談できる相手が、友人ではなく母親に取って代わられたそうです。
またスポーツ報道では2000年代以降、友情にフォーカスしたものが急増したそうなんですね。しかしその中身はというと、ざっくり説明すると、人間関係のドロドロした部分が抜け落ちた「無菌化」した友情の物語だそうです。
2000年代以降はとても純化された、現実にはありえないような友情の物語が好んで消費されるようになっていきました。友だち関係が薄く広くなってしまった結果、純化されたファンタジーとしての友情がもてはやされはじめる。その一方で、現実では悩みを相談できる対象は母親にシフトしたのでしょう。
【三宅】恋愛についても同様だと思います。相手への期待値が低く、自分の弱いところをあまり晒せなくなって、「親のほうが自分のことをわかってくれる」と思っている人が多いようです。最近はそこまでして恋愛をしたいという若者も、友だちと夜通し遊びたいという若者も減っている印象があります。