奇跡的に生き延びた人たちと、為すすべもなく殺された人たち
ただ、アメリカが被爆者について全く報じてこなかったというわけではない。占領下の検閲により日本で原爆報道が封じられていた1946年に、アメリカ人ジャーナリスト、ジョン・ハーシーが広島を訪れて書いたルポ『ヒロシマ』は、今に続く大ベストセラーになっている。日本以外の海外ではよく知られており、特にアメリカでは、ハーシーのこの『ヒロシマ』を通じて原爆について知る人が多い。
ハーシーはこのルポで、当時広島にいた日本人5人とドイツ人1人に焦点を当て、頭上で原爆が炸裂した後、彼らがどうやって生き延びたかを綴っている。最終的にはこの全員が助かるので、読者は、ああ良かったと胸をなでおろす形になっている。ハリウッド映画でおなじみの、世界が滅亡しかけても、主人公とその近しい人たちだけは奇跡的に助かるという筋書きだ。人間扱いされずに、為すすべもなくあっけなく殺された数十万人の人たちは、そうしたスペクタクルの背景装置でしかない。こうした『ヒロシマ』の語りの問題点は拙著『“ヒロシマ・ナガサキ”被爆神話を解体する――隠蔽されてきた日米共犯関係の原点』で詳しく指摘している。
個人個人の経験を綴るヒューマン・ストーリーは貴重なものだ。その価値を否定しているわけではない。だがそれだけを追っていたら、全体の枠組みが見えなくなる。広島・長崎での大量虐殺にみられるような人道に対する罪をどう裁くかなど、より大きな問題を問うのが難しくなる。
朝ドラのモデルが担当した「原爆裁判」もほとんど忘れられていた
現在NHKで放送中の朝ドラ「虎に翼」は、さまざまな社会問題に果敢に斬り込んでいるが、主人公のモデルで、日本初の女性弁護士の一人となった三淵嘉子氏が、アメリカの罪を裁いた原爆裁判の判事の一人だったことは、最近までほとんど知られていなかった。
1963年に下されたこの裁判の判決自体が、ほとんど知られていないからでもある。ヒューマン・ストーリーを追うのに熱心な日本の8月ジャーナリズムが、この原爆裁判をテーマに深く掘り下げて報道したことがどれだけあっただろうか。
この判決は、被爆者の損害賠償権を棄却したが、その一方で「アメリカの原爆使用は国際法違反だ」と、鮮やかに断じてみせた。そして被害者の救済を怠ってきた日本の立法・行政府の怠慢を指摘し「政治の貧困」を嘆いたことが、その後の被爆者援護の法整備につながっていった。
当時、多くの被爆者たちが、いまだに原爆症などに苦しみ、元の生活に戻ることができない状況にあった。そのため彼らが一番求めていたのは医療支援や福祉政策の制度化だった。非戦闘員の無差別大量殺戮は許せない、と社会正義の実現を追求していた弁護士や社会活動家たちはそれを反省し、運動の方向転換を行う契機になった裁判でもあった。
しかし、今は被爆者の高齢化が進み、状況は大きく変化している。もう一度原点に戻り、方向を転換する時が来ているのではないだろうか。日米の和解は大切だが、広島・長崎の人たちが受けた非人道的な扱いが見えなくされた形で進められるのはおかしいし、今は敵ではなく友人であるというなら、アメリカが彼らにきちんと向き合うよう求めていくべきだ。
今回、長崎市がイスラエルを招待しなかったことを理由に、エマニュエル駐日アメリカ大使らが長崎平和祈念式典に欠席を決めたことも、こうして戦後79年に至るまでずっと、日米間で積み残してきたことの結果なのだ。
最後に、これまで指摘してきた問題点は、原爆という被害経験だけではなく、戦争加害国としての日本の経験として見た場合にも、主客を転倒した形で、多くが当てはまることを記しておきたい。
コーネル大学Ph. D.。90年代前半まで全国紙記者。以後海外に住み、米国、NZ、豪州で大学教員を務め、コロナ前に帰国。日本記者クラブ会員。香港、台湾、シンガポール、フィリピン、英国などにも居住経験あり。『プロデュースされた〈被爆者〉たち』(岩波書店)、『Producing Hiroshima and Nagasaki』(University of Hawaii Press)、『“ヒロシマ・ナガサキ” 被爆神話を解体する』(作品社)など、学術及びジャーナリスティックな分野で、英語と日本語の著作物を出版。