「原爆の父」オッペンハイマー博士の孫が6月に来日
映画『オッペンハイマー』がヒットして今年のアカデミー賞を席巻し、日本でも今春の上映後、さまざまな形で話題になった。戦後79年の夏を迎えた今月、全国で再上映が始まっている。
ロバート・オッペンハイマーの孫にあたるチャールズ・オッペンハイマー氏も今年6月、アメリカから来日して記者会見をした。核兵器に限らず全ての兵器を使うべきではないと話したことを、全国紙やNHKが一斉に報道した。
日本記者クラブ「チャールズ・オッペンハイマーさん(「原爆の父」オッペンハイマー博士の孫)会見」
チャールズ氏自身は会見について、「家族に引き継がれている価値観(family values)について話し、原子力利用の拡大と兵器削減を呼びかけた」などとXの投稿で語っている。
映画で描かれたように、マンハッタン計画を主導した祖父のオッペンハイマーは戦後、一転してソ連のスパイではないかという嫌疑がかけられた。そうした中で、家族がたいへんな思いをしてきたことは想像に難くない。だから孫として、家族のことを最初に言及したのは理解できる。家族を守ることは彼の原動力のひとつでもあるのだろう。
「オッペンハイマーも苦しんでいた」というわかりやすい物語
原爆で殺され、苦しめられた広島・長崎の人たちだけでなく、原爆を開発したオッペンハイマーとその家族も辛酸をなめた――こうした話はわかりやすい。戦場に行かされた兵士も、空襲を受けた人たちもたいへんな目に遭った。悪いのは戦争だ、という日本のいわゆる“8月ジャーナリズム”の語りと似ているところがあるからだ。
ただ、悪いのは原爆だ、とはチャールズ氏は言っていない。核兵器だけでなく全ての兵器を否定したが、原爆使用の直接的な評価は避けた。記者から何度か質問が出たが「二度と使ってはいけないことを世界に示した」と言うのにとどまった。
だが、私が思うのは、このように個人の反応に焦点を当てて、どれだけ意味があるのかということだ。原爆で殺され、また長年苦しんできた人たちは数十万人以上に上る。とても一個人が背負えるものではない。その意味で、問いかけるべき個人がいるとしたら、それはアメリカ大統領以外にはいない。でも日本のジャーナリズムは、歴代のアメリカ大統領に、それを問いかけてきただろうか。
わかりやすい人間ドラマは原爆使用の責任から目をそらさせる
そもそも原爆の問題を、オッペンハイマーとその家族のヒューマン・ストーリーを通して見ること自体が、最初から問題の枠組みを狭めている。たとえ本人と家族が長い間苦しんできたとしても、一個人や一家族の苦難と、何十万人もの人々の大量虐殺は、対比できるような性格のものではない。
またオッペンハイマーに原爆を開発した責任は問えたとしても、市民が密集して住む市街地を標的にして、2回も原爆を使用した責任まで問えるのかどうか。問題はあらかじめ限定されている。
つまり、最初から原爆使用の責任問題を回避したところに、このように個人に焦点を当てたヒューマン・ストーリーが存在している、ということだ。
もちろん、個人という立場から物事を捉えることは重要だ。また、オッペンハイマーがどのような人間で、何を考え、どう科学の難問に取り組み、どう政治的に行動したか、個人的な側面を追求することに興味を持つ人はいるだろうし、その意義もあるだろう。
しかし、オッペンハイマーという個人に焦点を当て、原爆使用の問題性は問おうとしない映画がヒットし、それに関連したことばかり人口に膾炙するという一連の流れ自体が、原爆使用の責任から、結果的に目をそらさせる仕掛けとして機能していないだろうか。
いまだにアメリカ人の多くが、原爆使用は正しかったという考えを変えていないのが現実であることが背景にある。
オッペンハイマーが涙を流して謝ったという知られざる物語
こうした中で、個人対個人の関係ばかりに注目する報道の仕方も、考える必要があるのではないか。
ロバート・オッペンハイマーは1964年にアメリカで広島の被爆者と対面した時、涙を流して謝った。通訳をした女性がそのことを証言する映像が広島市で見つかった、とNHKが今年6月に報じている。当時、広島の被爆者運動の中心人物だった物理学者の庄野直美氏らが渡米時にオッペンハイマーに面会したという。庄野氏はマスコミでよくコメントを求められる立場にあった人だが、高校の同窓会誌のようなマイナーな場所でしかそのことを言及しておらず、広く知られることはなかった。
NHK NEWS「オッペンハイマー “涙流し謝った” 通訳証言の映像見つかる」
もともと非公表での面会だったためでもあるだろうが、庄野氏には、ここでオッペンハイマーに個人的に涙と共に謝罪されても、どうしようもないという気持ちがあったのではないだろうか。
それは庄野氏が一人の人間として、オッペンハイマーの心情をどう受け止めたか、ということとは全く別次元のことだ。そうではなく、広島・長崎への原爆使用は、個人レベルの対処で収まるものではなく、そのように矮小化してしまうべきものではないということだ。
オッペンハイマーの孫と面会した被爆者のコメント
もう一つ、個人対個人の関係の延長線上で考えた場合に起きることについても、例を挙げよう。チャールズ氏が今回広島を訪問した際に、彼と話した被爆者の小倉桂子氏の言葉を、読売新聞が伝えている。
「彼もオッペンハイマーと名乗ることがすごく大変だったと聞いた。私も被爆体験を話すまで何十年もかかった。歴史の一点ではあっても、私たちはお互いにつながっているんだと感じた」
読売新聞オンライン「オッペンハイマーの孫が広島訪問、被爆者に熱心に質問…『核廃絶のステップは各国の対話から』」
長い間苦しんできた加害者側と被害者側の経験に、共通点が出てくることはあるだろう。そうしたつながりを探すことが、対話の糸口になる場合もあるだろう。ただ、小倉氏がチャールズ氏と見て回ったG7広島サミット記念館には、広島にいた人たちが実際に原爆でどんな被害を受けたかを示す写真など、ビジュアルで見せる展示はない。
映画で日本の被爆者の姿が描かれなかったのはなぜか
それは映画『オッペンハイマー』に、広島・長崎の原爆被害の描写がなかったことと、どこか似通っている。もちろんチャールズ氏は小倉氏に被爆体験を聞いているし、記事にはなかったが広島平和記念資料館にも行ったのかもしれない。ただ、翌々日には東京で講演と記者会見の予定があったということなので、あまり時間を置かずに広島を発ってはいる。
小倉氏の背後には、数十万人の被爆者の存在があるのだが、彼らは捨象されて、このように個人レベルの一対一の出会いとして集約されていく。
数十万人に及ぶ人たちの被爆体験とは、被爆の実相とはどのようなものだったのか。それらが加害者側や第三者に対して十分可視化され、共有されないまま「対話」が行われ、「和解」が演出されていくのは、あまりに非対称的だ。
こうした状況の下、加害者が被害者になり代わる逆転現象も起きている。前回の記事で指摘したように、映画の中で原爆による被害者として描かれるのは、広島の被爆者ではなく、原爆開発に携わった当のアメリカ人たちだった。
【参考記事】なぜ被爆した日本人の姿を出さないのか…『オッペンハイマー』高評価とは裏腹に悲しいほど前進のない原爆観
彼らが突然その場で原爆攻撃を受ける様子を、オッペンハイマーが想像するシーンがある。
本来、原爆を作った加害者側である彼らが、被害者として想像されるということ。核抑止の考えに基づくと、うなずける話ではある。攻撃した側が直ちに報復攻撃され被害を受けることが予測されているからだ。
しかしこれは既に、広島・長崎の原爆被害を捨象した上での想定だ。彼らには直ちに反撃する武器などなかったからだ。つまり、広島・長崎の被爆者は既に「考えに入れなくてよい過去の人たち」にされている。
奇跡的に生き延びた人たちと、為すすべもなく殺された人たち
ただ、アメリカが被爆者について全く報じてこなかったというわけではない。占領下の検閲により日本で原爆報道が封じられていた1946年に、アメリカ人ジャーナリスト、ジョン・ハーシーが広島を訪れて書いたルポ『ヒロシマ』は、今に続く大ベストセラーになっている。日本以外の海外ではよく知られており、特にアメリカでは、ハーシーのこの『ヒロシマ』を通じて原爆について知る人が多い。
ハーシーはこのルポで、当時広島にいた日本人5人とドイツ人1人に焦点を当て、頭上で原爆が炸裂した後、彼らがどうやって生き延びたかを綴っている。最終的にはこの全員が助かるので、読者は、ああ良かったと胸をなでおろす形になっている。ハリウッド映画でおなじみの、世界が滅亡しかけても、主人公とその近しい人たちだけは奇跡的に助かるという筋書きだ。人間扱いされずに、為すすべもなくあっけなく殺された数十万人の人たちは、そうしたスペクタクルの背景装置でしかない。こうした『ヒロシマ』の語りの問題点は拙著『“ヒロシマ・ナガサキ”被爆神話を解体する――隠蔽されてきた日米共犯関係の原点』で詳しく指摘している。
個人個人の経験を綴るヒューマン・ストーリーは貴重なものだ。その価値を否定しているわけではない。だがそれだけを追っていたら、全体の枠組みが見えなくなる。広島・長崎での大量虐殺にみられるような人道に対する罪をどう裁くかなど、より大きな問題を問うのが難しくなる。
朝ドラのモデルが担当した「原爆裁判」もほとんど忘れられていた
現在NHKで放送中の朝ドラ「虎に翼」は、さまざまな社会問題に果敢に斬り込んでいるが、主人公のモデルで、日本初の女性弁護士の一人となった三淵嘉子氏が、アメリカの罪を裁いた原爆裁判の判事の一人だったことは、最近までほとんど知られていなかった。
1963年に下されたこの裁判の判決自体が、ほとんど知られていないからでもある。ヒューマン・ストーリーを追うのに熱心な日本の8月ジャーナリズムが、この原爆裁判をテーマに深く掘り下げて報道したことがどれだけあっただろうか。
この判決は、被爆者の損害賠償権を棄却したが、その一方で「アメリカの原爆使用は国際法違反だ」と、鮮やかに断じてみせた。そして被害者の救済を怠ってきた日本の立法・行政府の怠慢を指摘し「政治の貧困」を嘆いたことが、その後の被爆者援護の法整備につながっていった。
当時、多くの被爆者たちが、いまだに原爆症などに苦しみ、元の生活に戻ることができない状況にあった。そのため彼らが一番求めていたのは医療支援や福祉政策の制度化だった。非戦闘員の無差別大量殺戮は許せない、と社会正義の実現を追求していた弁護士や社会活動家たちはそれを反省し、運動の方向転換を行う契機になった裁判でもあった。
しかし、今は被爆者の高齢化が進み、状況は大きく変化している。もう一度原点に戻り、方向を転換する時が来ているのではないだろうか。日米の和解は大切だが、広島・長崎の人たちが受けた非人道的な扱いが見えなくされた形で進められるのはおかしいし、今は敵ではなく友人であるというなら、アメリカが彼らにきちんと向き合うよう求めていくべきだ。
今回、長崎市がイスラエルを招待しなかったことを理由に、エマニュエル駐日アメリカ大使らが長崎平和祈念式典に欠席を決めたことも、こうして戦後79年に至るまでずっと、日米間で積み残してきたことの結果なのだ。
最後に、これまで指摘してきた問題点は、原爆という被害経験だけではなく、戦争加害国としての日本の経験として見た場合にも、主客を転倒した形で、多くが当てはまることを記しておきたい。